LINEのはなし

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「り」「あ」

今ちょうどテレビに出てたのでLINEのはなしですが、それによると、今の十代の若者は「了解」を「り」、「ありがとう」を「あ」で済ませる、らしいです。

若者がなんでもかんでも略語にしてしまうのは今に始まったことではありませんが、ここまで省略されてしまうというのも凄いな、と。

急に回想するよ

平成元年生まれである僕は、小学生の頃はPHSを使い、中学生になって二つ折りの携帯電話を使い始め、次第に通話よりもEメールを使うようになり(ちなみにPCで同士でのメールのやり取りや、チャットでのやりとりもしていた記憶がありますが、この経験はどちらかと言えばマイノリティか)、大学生の半ばからスマートフォンSNSも普及してきつつも、しかし依然として連絡手段はEメールだったのが、つい三年ほど前からLINEという所謂インスタントメッセンジャーが個々人の連絡のメインツールとして爆発的に広まり、今に至ります。なんだかLINEでのやりとりにあまりに慣れてしまい、ついつい忘れてしまいそうになりますが、こうして考えると我々(と言ってしまいますが)は、これまでかなり様々な形態でのコミュニケーションというものを経験してきたのだと気付かされます。

なにが変わってきたのか?

さて、EメールもLINEも携帯電話を用いた文字でのやり取りという点は変わらず、また、若者がなんでもかんでも省略するのは今に始まったことではない(少なくとも小学生の頃、つまり15〜20年前には既にそれに対する批判を聞いた記憶があります)。しかし、ここまで言葉が省略されるようになったのは恐らく、まさにLINEのその「インスタント性」に理由があると思います。つまりその、コミュニケーションスピードの高速化に対応して発生してきたものであろう、と。

以前、家入一真氏が「LINEスタンプは感情表現のコミュニケーションコストを下げた」という旨の発言をしていたのを見て「成程」と思い、個人的に印象的でした。つまり、感情を表現するために幾つもの言葉を連ねるよりも、適当なスタンプを一つ送る方が当然手軽で、時間もかからないわけです。LINEというのはそういったスタンプの利便性と、メッセージの届くスピード、また、読んだか読んでないかの可視化も相まって、非常に低いコストでのコミュニケーションを可能にしたと言えます。

LINE>>>>越えられない壁>>>>メール…とかではない……が、

誤解を招かないように述べておきますが、LINEと、それ以前のコミュニケーション手段を、分けて考えるべきではないと思います。これは段階的な変化であると考えるべきでしょう。これから更にコミュニケーションコストを下げる手段というものが登場する可能性もあるでしょう。そして、もしそういったものが登場すれば、我々はすぐにそれに飛びつき、LINEというコミュニケーション手段もまた、過去のものとして忘れ去られるようになるかもしれません。何故なら、基本的にコストなんていうものは低い方が良いに決まっているからです。

 

しかし、どうでしょう。

「り」→「了解」とわかっていれば、「り」で十分意思疎通は可能でしょう。

「あ」→「ありがとう」とわかっていれば、「あ」で十分意思疎通は可能でしょう。

しかし本当に「ありがとう」という気持ちが伝わるか?いやいや、「あ」と打つ手間と「ありがとう」という五文字を打つ手間の差に、そんなに気持ちの現われが違うものか、「あ」と打つと予測変換で「ありがとう」が出たりもしますし、もっと言えば辞書登録(なんてもうあんまりしないかもしれませんが)すればいくらでも感謝の言葉を2,3タップで紡ぐことが可能です。まぁそれこそ「あ」では「記述不足」であるとはいえ、上記のような価値観が共通コンテクストとして存在すれば、あまり問題にはならないでしょう。「あ」と「ありがとう」にはほぼ差なんて無くなってくるでしょう。

が、

だからこそ、同時に恐ろしくなってきます。

「あ」と「ありがとう」のフラット化は、「あ」→「ありがとう」だけでなく、「ありがとう」→「あ」ということにもなりはしないか。つまり、我々の中の「ありがとう」という感情の方が、むしろ「あ」程度のものになってしまいはしないか。「ありがとう」という感情自体が、非常に軽薄なものになってきてしまうのではなかろうか、と。

スタンプも同様でしょう。本来、我々の実際の感情とスタンプとの間には、ギャップがあったはずです。我々の感情と完全にピタリと一致しているスタンプなどあるわけもありません。スタンプにした途端失われたものがあるはずです。しかし、我々は手元にある選択肢の中から感情の近似値たるスタンプを選ばざるを得ません。そして、先程と同様に「我々の感情のスタンプ化」が起きてはしまわないかと。

これは単なる杞憂でしょうか、それとも、もう既に起きていることなのでしょうか。

僕は、後者であろうと思います。

「インスタント」

だから、僕はLINEのようなインスタントメッセンジャーの「インスタント性」を忘れてはならないと思うのです。あくまでこのコミュニケーションは「インスタント」なものなのだということに自覚的であるべきだと思うのです。それは、instantにメッセージを届けるものでありながら、しかし同時に「インスタント」なメッセージを届けるものでもあるということだと思います。それを多用し依存してしまうことは、元来あった本質を見失ってしまうことになるのではないかと思います。それはちょうど、インスタントコーヒーばかり飲んでしまって、本来の美味しいコーヒーの味を忘れてしまうように。