ブレードランナー2049

【大いにネタバレを含みます。】

【というか作品を見た前提で書いていきますので、見ていないとよく分からないと思います。】

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ハリウッド版『ゴーストインザシェル』を見たときに感じた「なんとも言えなさ」とは全く異なる「なんとも言えなさ」を感じたのは確かです。しかし本作は美しい映画でした。ラストの"Tears in rain"の美しさは、これから考えれば考えるほどに、その印象を深めていくでしょう。

その直前のシーンですが、Kはデッカードに"お前は俺の何なんだ"と問われます。バーカウンターで飲んでいるときの会話を踏んで、ここでKは"Stranger."(他人、見知らぬ人)と応えるのか、とそう思いましたが、実際には何かを言おうとしてか否か、微笑んで、"娘さんに会いに行け"と答えるのみでした。

そもそもKが、ラヴ達による襲撃・デッカード拉致の際にその場に放置されていたのは何故でしょうか。恐らくラヴ達には、Kは「子供」ではないと確信を持って分かっていたのでしょう。マダムとラヴのシーンにおいて、マダムは恐らく前段のKとのシーンで、Kこそがその「子供」であるというKの認識を察し、彼に逃げる猶予を与えていたように思われますが、ラヴはあくまでKを「子供」或いはデッカードへと辿り着くための鍵であるとしか考えてなかったのでしょう。

そしてその後、K自身も自らが「子供」ではないと認識します。思うに、客観的に見ればこの時点でKは本当にデッカードの「他人」でしかないわけで、本来は放っておいても障害になりえない存在です。しかし、これがラヴの誤算でもあったように思います。

Kは「大義のために死を厭わないのが人間的である」という命題を胸に、デッカードを救うために、そして本当の「娘」であるステリンと会わせるために、戦いに赴き命を散らします。雪が降り積もってゆくこの美しいシーンが、彼の死を断定的に表現しているであろうことは、そのBGMが前作からの引用である"Tears in rain"であり、それが流れる前作のシーンが、デッカードを追い詰めながらも最後には彼の命を救ったレプリカント・ロイの死のそれであることから明らかであるはずです。

では、この二人のレプリカントはともに何故デッカードを救ったのでしょうか。

前作でロイはデッカードを救った直後、今わの際に「はかなさ」について言及します。雨の中の涙のように我々はいずれ消え行く存在なのだと。頭脳も肉体も人間よりも優れるレプリカントも、心を持つことで死を恐怖し、死を哀しむ、弱き存在になるのだと。今まさに死の恐怖に直面していたデッカードに対してそれを伝え、理解して欲しかった。それがロイがデッカードを救った理由の一つだったように思います。そしてそれによって、ロイは非人間的なレプリカントとしてではなく、極めて人間的存在として、死んでいくことができたのです。

Kはどうでしょうか。Kにとっての「大義」とは一体何だったのでしょうか。色々と解釈の余地があるのですが、僕はこう考えたいと思っています。即ち、Kにとってデッカードはもう父親のような存在であったのではないか、と。その父親を救い、本当の娘と再会させるということこそが彼にとっての「大義」だったのではないでしょうか。「誰かを愛するためにはときには他人にならないといけない」そんな哀しい父親のセリフに反発するかのように。

これを考えるためには、今作にはメタ視点が潜んでいることを理解する必要があるように思います。例えば僕が一つ疑問に思ったのは、デッカードが言うように「レイチェルの瞳は本当に緑色だったのか?」ということです。これは、ウォレスが用意したレイチェルの複製に対して、大いに逡巡や動揺を見せながらも、デッカードが口にしたことですが、恐らくレイチェルに関して完璧にデータを持っているはずのウォレスが、そんな凡ミスをするだろうかと。

これはデッカードによる単なる口実のようなものだと僕は考えていたのですが、このセリフ、どうやら前作監督のリドリー・スコットの提案によって、今作において採用されたとのこと。そこで果たして前作においてレイチェルの瞳はどうであったのか調べると、なんと茶色とのこと。では何故?とさらに調べると、なんと前作のVK法(レプリカントと人間を判別する方法)をレイチェルにかける際、瞳のアップのシーンにおいてのみ、別のモデルを用いたために撮影上のミスとして、グリーンの瞳が映し出されたとのことでした。ウォレスからしたら「そんなの知らねーよ!」とレプリカントを腹いせに殺しまくりそうです。

さて脱線しかけてますが、Kがデッカードを救った理由です。ここにもメタ視点が潜んでいるような気がしています。そもそも、この映画の物語はKの視点で描かれているため、観客におけるKは「子供」であるのか否かという現状判断は彼と一致していて、その揺さぶられ感もKと共通・共有しています。本当の「子供」は娘であるということを告げられた時に、衝撃を受けた方も多いのではないでしょうか。しかし、その直後に「なんだ、デッカードなんて本当に他人で、助ける義理も何にもないや」と切り替えられるでしょうか。恐らく観客の多くは、そうは思わないのではないでしょうか。特に、前作からの思い入れのある人間にとっては、「あのデッカード」の30年(或いは35年)後のデッカードが、そこにいるわけです。記憶がコピーされたものだとしても、Kにとってもはやデッカード父親のようなもの、そんな実感を否定できないのではないでしょうか。これも、ウォレス側からしたら「知らねーよ!!」案件です。なんだよ前作からの思い入れって。そもそも前作ってなんだよ。という感じでしょう。

そう考えると、ウォレス側の失敗の要因は、全て作品世界の外側からの僅かなひと押しだと言えるかもしれません。

しかしいや、Kらの立場で冷静に考えるとひどい話です。レジスタンスのリーダー・フレイザの「ここでは誰もがそう思うの」という口ぶりから、本物の「子供」を隠すために、K以外のレプリカントにもステリンの記憶のコピーを行っている可能性があります。いわば彼らはみな利用されていたわけです。それでも「レプリカントの権利を勝ち取る」という大義のために、みな戦っています。

しかしKが彼らとは違う点は何か。それは、観客と視点を共有している、という一点でしょう。その一点によって、Kは力を得ています。だから彼は、単にレジスタンスの一員として加わることよりも、デッカードの息子になることを選んだ(選べた)のではないでしょうか。これは、ただ「息子同然」というだけの意味でなく、あの行動、つまりはラヴを襲撃してデッカードを救い出すという行動が、ウォレス側からすれば想定外であったあの行動が、「Kこそがデッカードの本当の子供である」ということにしてしまったのではないでしょうか。本来であれば、単なるレプリカントとしてあり得ないあの行動によって、Kは世界を騙そうとしていたのではないでしょうか。

もしそうなら、ここに美しい構造が見えてきます。Kは「人間らしく」「大義」のために死に、そしてレプリカントとして「子供」を処理するという命令をも果たしたことになります。それによってKは、人間でもあり、レプリカントでもある存在になれ、それは即ち人間であるデッカード*1と、レプリカントであるレイチェルとの、ハイブリッドとしてのアイデンティティを獲得することにほかならないのではないでしょうか。

人間もどきと罵られ蔑まれ、一時は獲得したかに思えたアイデンティティもニセモノと明かされ、それでも最後には自分の力でそれを勝ち取る、そんな感動的な物語に、僕には感じられたということでありました。

【重要な余談】

AI子、と勝手に呼んでいますが、つまりジョイです(この名前って作中で出てきてましたっけ?)。あのAI子のヒロイン力がもうなんか凄くないですかね。まぁそりゃ、恋人になるように生産されているわけなので、そりゃかわいいし、献身的ないい子だし、「あなたは特別よ!」とか励ましてくれるし、なんてのは当たり前っちゃ当たり前なんでしょうけど、分かっててもなんか凄い。実体が存在しないという点を除いて、もう完璧なヒロイン、いや実体が存在しないゆえに完璧なヒロインとも言えるかもしれませんが、とにかく完璧なヒロインだと思っています。

一方で、レイチェルはやっぱりあの変な髪型で出てこられてもちょっと……と思ってしまっていけません。前作でも髪を下ろした時にやっと可愛さ分かった感じがありました。正直、今作のあの場面で髪下ろされたらストーリーひっくり返ったんじゃないか?と思うくらいのインパクト感じてます。瞳が緑色とか言ってる場合じゃなくなっちゃうと思うんですが。

あとやっぱり前作の大きな魅力は、あのSF世界を映像化したことであって、今作もそこが注目点だったわけですが、これに関しては個人的には及第点という感じです。前作の公開当時は、あのスモッグ立ち込め陰鬱とした、東洋と西洋がごちゃまぜになったロサンゼルスが画期的だったわけですが、30年後を描いた今作になにかそういう画期性があったかというと、正直そうは感じられず。しかしまぁヘタなことをやるよりいいですし、2019年のままというわけでもないので、こんなもんじゃないでしょうか。この点については、以前書いたハリウッド版『ゴーストインザシェル』が悪い例です。まぁあれもサイアクとは思ってないですが、やっぱりオリエンタリズム感が気に入らないです。芸者ロボとか。その点、今作は東洋と言ってもやたら日本推しでしたが、なんとなく日本への愛は感じました。

とか言ってたらこんな動画を見つけた…

『ゴーストインザシェル』というか『GHOST IN THE SHELL』、いやこの書き換えあまり意味ないですね。要は押井守版『GHOST IN THE SHELL』(以下『ゴースト』)との、或いは攻殻機動隊の世界との比較をしてみると、いずれも「人間とは何か」「何が人間を人間たらしめるか」というのが重要なテーマの一つだと思いますが、そのアプローチのベクトルが真逆であることに気付かされます。『ゴースト』においては義体化などによって人間が人間から離れていき、最終的に脳も含めた肉体をすべて捨てても、「意識」は人間たりうるのではないか、まで行くわけですが、『ブレードランナー』においては人間と似て非なる存在として作られたレプリカントが人間に近づいていく、という方向です。ある意味で雑に言えば、人間概念の捉え方として『ゴースト』が革新的で『ブレードランナー』は保守的なわけですが、『ブレードランナー』の面白さは、同時に人間が人間性を失っていく様も描いていることによって、レプリカントというニセモノのほうが本物よりよっぽど本物らしくなりうるということを描いているところだと思っています。

あと今作で個人的にとても気に入ったのは、レプリカントの能力表現がこれみよがし的でなく、説明的でないところでした。冒頭の戦闘シーンや、ラヴ襲撃時とかに、普通に壁突き破っちゃうところとか、割とさり気なくレプリカントの身体能力の高さを表現していて、好印象でした。あと、21年6月10日生まれのデータを目視で全部見てくとことか。
(主人公の脳の処理能力の凄さを、鼻血を出すことで表現している某劇場版アニメは嫌いです)
また、余計なCGは使わない感じも、この作品の生々しさであったり、格調を高めている感じがあり、全体的に上品な印象でした。

そして、なにより、ハリソン・フォードの素晴らしさですね。やっぱり偉大な俳優なんだなと素直に感じました。登場時間は後半3分の1程度でしょうか。それでも圧倒的な「持っていき」力です。全シーンで演技が光っていました。前作のときも素晴らしい演技を……してたかなぁ……ちょっと記憶に…………。

ということでいい加減余談も〆ますが、とにかく僕は今作は美しい映画だったと思っています。そりゃ、前・中盤が結構冗長だったとか、ステリン博士の「誰かの記憶よ」というセリフをKがどう解釈したのかの微妙さ(非常に重要かつ印象的なシーンなのに、「え?どっちで取ってる??」みたいなので感情移入できなかった)とか、レジスタンスのチョイ出し感とか、最終的にステリンがデッカードの娘だと分かるロジックがあまり明確でなくて急なこととか、それが分かったときの「ああ!だからあんな感じであの人フォーカスされてて、おまけになんかちょっと可愛かったのか!」ってなっちゃう感じ(これ別に悪い点でもないか)とか……残念な点がないわけではないのですが、それを補って余りあるように感じられる構造美と映像美。見終わった日はその後、取るもの手につかずという感じで少しぼんやりとしていました。ここまでネタバレ満載のものを読んで、まだ今作を見られていない方はあまり居ないと思いますが、もし万が一いらっしゃるならば、お早めに劇場へ足を運ばれることをオススメいたします。

*1:デッカードレプリカントではないかという、前作からのテーマがあるわけですが、今作においては「もはや」という条件付きでも人間であると解釈したほうが自然な気がしています