「説明」という幻想、復讐の現代的形態

「説明責任」という言葉をよく聞くようになったのは、なんだかんだここ数年のような気がするのですが、どうにも僕には、この「説明」というものに過度な期待や、なにか、無き望みをかけているような風潮があるように見えるのです。

「納得行く説明」を求める声は、いま非常に多くの場面において聞かれます。それはつまり、当然ながら納得できていない状況にあるということで、そういう中には、むしろ何らかの不条理、憂き目、心なき者からの被害に遭ったような人達もいるであろうと思われ、そういう人達を責めるべきではないと思うのですが、その「説明」は恐らく幻想であって、それを求められている側の人間がどれだけ言葉を尽くしたところで、満たされることのない要求であるように思うのです。

例えば、政治において野党が与党の何らかの不祥事等に対して、「説明」をしろと追求するのは、これは攻撃の戦略としてあるものですから、別にこれは加害者・被害者という構造ではありません。しかしそうでない場合――具体的な事件・事案を挙げることは避けますが――、害を被っている人々は、そのどうしようもない状況を、「説明」という言葉によって、或いはそれを待つということによって、自分自身の感情をなんとか抑えている、そんな風にも見えます。

これは、なんとなく「復讐」の構造に似ている、なんなら、一つの復讐の形態なのではないか、とさえ思います。「復讐は空しい」なんて言われつくされた常套句もありますが、しかし人間が復讐に走る、或いは復讐劇というものに人間がどこか言いようのない痛快さを覚える、というのは、復讐によって何かが得られたり改善したりするのではなく、またそれらに期待しているのではなく、ただ単純に、復讐をせざるを得ない、そうしなければ収まりがつかない、損得勘定や理性を超えた、ひたすらに純粋な情動として復讐があるから、であると思います。

「説明」を求める、なんて言うと、なんだか冷静で論理的な印象を受けますが、その内実には、そういうもっと生々しい感情が渦巻いているように思えます。言い逃れのできない、単純に相手に非があるような状況で、「納得の行く説明を」と迫る。加害者は、たとえそれに対し誠意を持っていたとしても、そして誠意ある対応・回答をしたとしても、被害者は「なるほど、そういうことだったのか」と納得するはずなんてないため、再度「説明を」と迫る。このサイクルは、現代における復讐の形態と言えるのかもしれません。