メタ

我々はいま、シナリオのない演劇を演じている。

かつては、我々は当然のようにシナリオに沿って動いてきた。そのシナリオに沿って役割を演じていれば、どうやら素晴らしい作品が出来上がるらしい。そんなことを信じて、我々は演技を続けてきた。

しかし、段々と「そんなシナリオはダメだ」という人たちが現れてきた。

確かに、言われてみればそうである。どうにもそのシナリオは胡散臭く見えてきた。そんなシナリオに従ってなんていないで、やりたいようにやればいいじゃないか。そんな風な考えが、我々のうちにも増えてきた。自由というものは素晴らしいじゃないか、とも。

しかし、そんなことを続けてきたら、なんだか演劇はばらばらとしてきた。まとまりがなくなってきたり、そうかと思えば気を使いあって、かえってやりたいことが出来なくなったり、かつてのシナリオがあるかのように演る人もいれば、勝手なことをし始める人もいる。「もうなんでもいいんじゃないか?自由なんだし。」という人もいた。自由を謳いながら人を傷つける人もいた。

そんな中、秘密裏にシナリオを作る人たちも出てきた。シンプルで魅力的なシナリオに、いやむしろ、「シナリオを提供してくれる」ということに魅力を感じて、一部の人々はそのシナリオを演じた。しかし、そのシナリオには演劇全体を崩してしまいかねない内容のものもあった。劇全体のために、そういったシナリオは中断させられることとなる。とは言え、そういうシナリオは一つだけででなく、今でもそんなシナリオを演じている人達もいる。

僕は思う。この、シナリオのない演劇は、本当に素晴らしい作品となることは出来るのだろうか、と。そういえば、「そんなシナリオは」なんて言ってた人たちはどこに行ったろう。そもそも、シナリオは確かに胡散臭かったが、シナリオに従わないで自由にやれば素晴らしい作品になる、なんてことは誰か言っていたろうか。言っていたかもしれない。しかしその話は本当に妥当性のあったものだったろうか。我々は本当にそれを検証しただろうか。どちらかと言えば、シナリオのウソを暴こう、という熱に、みなが浮かされていただけのようにも思える。

この演劇はなんだかあぶなっかしくて、確かに時折面白い演者が現れ、驚きがあることは間違いないが、しかし、これが素晴らしい作品にちゃんと向かっているかは甚だ怪しい。今更かつてのシナリオには戻れない。だけど、あれにとって変わるような、素晴らしいシナリオを書ける人は誰かいないものか。と考えてみたけれど、そんなのを一人で書きあげられる人なんか、この劇団の中にはいないんじゃないか。だけど、誰かに頼んでみようか。新しいシナリオを書けないかと。その人一人で完成させるのは無理だろうけど、まずは叩き台となるようなものを書いてもらって、そのあとみんなで少しずつリアルタイムで修正していくしかないんじゃないか。自由演劇もいいけど、その要素も活かしながら、シナリオというものもあった方がやっぱり良さそうだ。

そうして、僕は新たなシナリオを求める役についた。

ぼんやりと考えていたこと

友達に誘われて、ガイ・リッチー監督「コードネームU.N.C.L.E.(原題:The man from U.N.C.L.E.)」という映画を見に行きました。映画自体はエンターテインメント要素強めのスパイアクションと言った感じで、スタイリッシュな映像や音をなかなか楽しめました。ガイ・リッチー作品は「スナッチ」しか見たことがなかったのですが、こういうカッコイイ映像が持ち味の人なのかな、という印象を覚えました。また他の作品も見てみたいなぁと思います。

で、それを見つつぼんやりと考えていたのは、作品自体とはあまり関係がないことで。。何かと言うと、「所謂権力者って本当にすごいのか?」ということです。

どういうことかと言うと、アクション映画ですから、戦闘のシーンでは所謂「モブキャラクター」がバッタバタとやられていくわけです。それに引き換え、組織のトップ的な存在、「権力者」は全くそんな戦闘には関与しないわけです。高みの見物決め込むわけです。つまり、モブ百人より遥かに重要視される一人の権力者というのは、一体どれだけすごい能力(もちろんこれは戦闘能力とかではなく、ビジネスとか政治とかのもっと一般的な意味です)を持っているのか、と疑問に思ったのです。

で、これは別にこういう映画の世界に限らず、実際のところ世の中の「えらい」と「すごい」はどれくらい一致してるものなんだろう、とか思ってみたり。もちろん何かを作るとか、何かのパフォーマンスが出来るとか、明確なスキルを何か持っている人は別ですが、そうじゃない人も結構いそうだなぁと。とは言え、およそみんな元々「すごい」から「えら」くなったんでしょうが、「えら」くなったときに権力とか影響力がハイパーインフレしちゃったみたいな人も相当数いそうなイメージがありますが、どうなんでしょう。

まぁ、だからなんだという話ではなく、その化けの皮ひっぺがしてやるぜーとか、ハリボテのその権力の座から引きずり下ろしてやるーとか、そういうことじゃなく、むしろそういうものにわたしはなりたいくらいな感じですが、まぁなんだか世の中色んな階層の人がいるっていうことは、自分がどの階層にいようとも、なるべく常に忘れないようにしたいですね。てなことでまとまらぬままですがここは一つ。

「自分探し」のはなし

「自分探しの旅に行ってきます」とか「自分探しの旅ってwww」みたいなのって、一時期良く見た気がするのですが、そんなことについてのはなしを少ししてみたいな、と。

個人的には、両方思うところがあり。両方というのは否定と肯定の両方です。

「自分探しの旅」なんて言ったって、自分は自分のいる其処にいて、自分のいない何処かにいるわけもなく、旅に出て普段の生活空間から離れた場所へ行ったところで、自分は自分の移動に追随して当然移動するわけで*1、結局探しに行ったところで自分は自分のいるのと同じ場所にいるのは変わらないのです。そういう意味で、「自分探しの旅」なんていうのは馬鹿げています。

一方で、「自分探しの旅」は実際的に有効である、とも思うのです。経済学者の大前研一氏の言葉で、「人間が変わるには三つの方法しかない。1.時間配分を変える、2.住む場所を変える、3.つきあう人を変える」というものがあります。これを全肯定するつもりはないのですが、しかしある程度的を射ていると思っていて、この論で言えば、旅というのはこの三つの要素全てを変える行動であるわけです。以前の記事で類似することを書きましたが、僕は「自分を規定するのは自分の不可能性である」と考えています。つまりまとめると、人間を変える三方法の全てを尽くしても変えられない自分、世界中のどこへ行っても逃れられない自分、その不可能性が自分なのではないか、と思うのです。その意味で、「自分探しの旅」と言わずとも単純に「旅」というものが、自分の再発見ないし再確認として有効な手段ではないか、むしろ逆説的に、旅というものが自分の発見として有効な手段であるからこそ、自分の発見を目的とした旅を指して「自分探しの旅」という言葉が言われるようになったのではないかと。そして、その言葉の響きの妙味が揶揄されるようになった、と、そういう経緯なのではないかと思います。

人間を、に限らず全ての実在がそうでしょうが、それを作る要素は、トートロジー的に先天的な要素か後天的な要素しか無いわけです。つまり、生まれ持って生まれてきた性質か、生まれた後の環境・経験等の蓄積しか無いわけです。だから、自分について考えるとき、その二つを区別するところから始めて、記憶をたどっていきながら考えれば明らかになるわけですが、しかし、自分というものを構成するものがどこまでの範囲なのか、それを考えるためには、普段自分の周りに付随しているものを取り払って、限りなく裸の自分*2にした方が、自分と自分以外の世界のコントラストがはっきりして、やりやすいわけです。旅をしなくたって自分はそこにいるので当然自分のことは分かるわけですが、より効率的であったり有効的な手段としての旅というのは、あってもいいのかな、と思います。

ここ最近の自分の旅を振り返ってみるに、二泊三日とかの旅ではなく、そこそこ長期間の旅ばかりだなぁ、と。それは何故かといえば、個人的には旅というものが、単なる非日常の時間としてあるだけでは、勿体ない、片手落ちだ、と思うからです。旅先でどんな経験をしても、それが非日常として処理されてしまえば、自分の日常とは関係のないこと、泡沫の夢、とまでは言いませんが、しかし日常を変革せずに終わってしまうのではないか、と思うのです。勿論、誰でも変わればいいというものでもないわけですが。ともあれ、僕が旅をするときは、旅先での時間が日常として馴染んでくるまでは旅を続けたいなぁ、といつも考えています。

そういう意味で言うと、会社人という立場に立つと、そんな旅もなかなか出来ないわけで、自分というものが本当に発見・確立されていないと、到底僕は会社人になるなんて出来ないなぁ、と思っていて、というか経験上も痛感して、世の中で会社人としてやって行っている皆々様につきましては、本当に尊敬の念が尽きない次第であります。いやはや僕も、「社会」の諸先輩方のように自分らしく生きていきたいものでございます。

*1:トートロジー過ぎて最早訳がわからない感じになってますが面倒なので鍵括弧で区別するみたいなことはしません

*2:「等身大の自分」という言葉を一瞬使いそうになりましたが、あの言葉は世の中であまりに安っぽく使われすぎているので辞めました。なんならクリエイターの中でよく言われる「パンツを脱いだ自分」という言葉でもいいですね