自由という限りのない不自由、或いは不可能性

「可能性という言葉を無制限に使ってはいけない。我々という存在を規定するのは、我々がもつ可能性ではなく、我々がもつ不可能性である」

――森見登美彦四畳半神話大系

 冒頭から大学生ライト文学少女達御用達である森見登美彦先生の作品「四畳半神話大系*1に登場する奇人・樋口の台詞からの引用をしてしまいましたが、この言葉は初めにこの作品に出会った5年ほど前から割と僕の心に突き刺さったままなのです。

この台詞は主人公である「私」が、自分が大学入学当初に思い描いていた「バラ色のキャンパスライフ」というものが実際には全く実現していないこと、もっと様々な可能性があったのかもしれないのにそれを一回生の頃に選択を誤ったせいで台無しにしてしまった、などと嘆いた際に、「私」の「師匠」である樋口が放った一言です。アニメには後半部分は収録されていませんが、同じ旨の台詞は入っています。

本当のところ、我々には多くの、あまりに多くの可能性があるわけです。しかし、それを無限定に肯定してしまっては、それらはあまりに無節制に目の前に広がり、かえって何も見えなくなってしまうのではないか、そしてそうなってしまった時に「自分」という者は何者になるのか、いや、つまりは、何者にもなれないのではないか、というジレンマが発生するわけです。それであれば、「自分」というものを「可能性」ではなくむしろ「不可能性」と捉え、そのどうしようもなさを受け入れることこそが、「自分」を受け入れるということなのではないか。と、僕は解釈しています。

それとは少し違った観点ですが、極端な言い方ですが、自分というものは「好きなものを選べ」と言われれば選べますが、「何を好きになるか」ということは選べないわけです。*2

「自分」を規定するのは自分ではありません。つまり、その意味において原理的に我々は限りなく不自由です。しかし、その不自由さ、或いは「不可能性」を受け入れることが、それこそがまさに自由、「自ずからに由る」ことなのではないかと、僕は思っています。

そんな、狐につままれたようなところで今日のところは一つ。

*1:2010年にノイタミナにて、湯浅政明監督によりアニメ化された作品。僕自身もそのアニメによって本作を知りました。このアニメ、さすが巨匠湯浅監督といった感じで非常に良く出来ていて面白いので、見ていない方には是非にとオススメしておきます。全11話とコンパクトで、且つ、アニメ的文脈に親しみのない方でも見やすいものと思います

*2:そういえば某知人が異性に関して「好きになるか考える」という言葉を用いていたのを聞いたことがあり、随分と妙な表現をするのだな、と思ったものです