雑感【160918深夜】

先週土曜日、『アナクロニズムの可能性』という一風変わった名前のバンドを出しました。

「ジャズをやる」という目的のもと、名の通り「アナクロニズムの可能性」をテーマに、徹頭徹尾コンセプチュアルに組み立てたバンドでした。そして、自画自賛的にはなってしまいますが、演奏の手応えとしては、その目論見は成功したと言える内容だったと考えています。

しかし、実際のところ、ある程度予想はしていたところですが、聴衆、否、観客にそれが伝わったかというと、ほぼほぼ伝わっていなさそうな印象で、むしろ、伝えたかったことと真逆に近い捉え方さえされているようにも思え、それが「甚だ心外である」とか、或いは「自らの力量不足」とか、そんなことを言うつもりはないですし、情報の発し手の解釈が受け手の解釈に優越するなんていう構造こそアナクロニズムの極地であると思いますので、ここに今から書き置くのは、本当に単なるメモ書き程度、或いは『アナクロニズムの可能性』というバンドの一種のスピンオフであるということを、今表明しておきます。なお一部、ライブステージ上における僕の述べたキャプションと同内容のものが含まれます。

さて、アナクロニズムとは何か。

一般には時代錯誤と訳されるこの語ですが、一旦はその訳を当てた上で考えていくと、大学ジャズ研というコミュニティ、或いはその音楽活動というのは、まさにアナクロニズムも甚だしいわけです。60年も70年も前の音楽を10代の若者が2016年にわざわざ演奏するわけです。勿論、ジャズという音楽は今も楽曲が発表・演奏されているわけですから、60, 70年前のものしかないわけではありませんが、しかし、敢えて独断と偏見を孕みつつ言うのであれば、ジャズという音楽は結局は60, 70年前のものであると思いますし、或いは独断と偏見を少し薄めながら言えば、メインの活動である「セッション」の音楽内容は60, 70年前から、恐らく劇的には変わっていないのではないでしょうか。

では、何が悲しくてそんなことをしなくてはならないのでしょうか。というのではなく、今回の趣旨はむしろ逆にあり、というのは、アナクロニズムの真逆である、時代に適合・符合するものというのは、では果たしてそんなに有意味なものであるのか、という逆説的な懐疑です。西野カナRADWIMPS*1をコピーする、或いは二次創作的な作品を量産することが、そんなに「クリエイティブ」*2なことと言えるでしょうか。僕は全く、有意味・クリエイティブではないと考えています。

それであれば僕は、現在と異なる時代のコンテンツを現代に持ち込む、ということの方がよっぽど有意義であると思います。そういった意味で、僕はアナクロニズムという本来は批判的に用いられる言葉・概念を、手法として意図的に用いることによって、何かが出来るのではないか、と考えました。

・・・という内容、文字に起こすに当たり少し説明も詳細化していますが、これを僕はライブのステージ上でキャプションとして説明しました。その上で我々の演奏は、

1.山下洋輔『キアズマ』

2.Horace Silver『Silver's Serenade』

3.Thelonious Monk『'Round Midnight』

という選曲で行いました。それぞれ、「フリージャズ」「ハードバップ」「ジャズスタンダード」という位置づけをした上で、3曲目以外は(ここが実は重要ですが)、非常に典型的な演奏をしました。

つまり・・・という話をする前に、述べる必要のあることがあります。実は、上記のキャプションは、全体の半分、というか、片方の側面でしか無かったということです。

アナクロニズムの可能性」というテーマにおける「可能性」という語に、僕は二つの意味を見出していて、それは先述のような"potential"という意味の可能性と、もう一つは"possibility"という意味の可能性です。厳密に言えば、むしろ、不可能性かもしれません。

どういうことかというと、我々のバンドの年齢層は23歳〜29歳までで、つまりは精々20代の若輩者なわけです。そんな若い人間に60, 70年前の音楽なんて、そもそも出来ないのではないか、やったところで真似事にしかならず、自分の生きた時代からリアルタイムで経験・吸収した結果としてのアウトプットには、なり得ないのではないか、という懐疑です。

本当のアナクロニズムの人というのは、それこそ60, 70年前の時代を生き、そしてその価値観のまま現代を生きているような、そういう人のことを言うように思うのです。その意味で、我々がアナクロニズムを意図的にやろうとしたところで、それはニセモノにしかなりえないのではないか、と僕は考えたのです。

さて、これは、つまりこの二つの「可能性」という語の解釈は、一見して矛盾している事柄のように思われます。当然です。

アナクロニズムを手法として意図的に取り入れよう」

というのと、

アナクロニズムなんて我々には不可能だ」

ということを同時に言っているからです。しかし、僕にはここにこそ、道があるように思われるのです。

これは、アナクロニズムかどうかという地平を超えて、少なくとも現代の日本の若者は、僕はニセモノにしかなりえない存在であると考えているところから話す必要があります。

我々、という言い方をあえてしますが、我々は文化的にどこに帰属すればいいのでしょうか?日本でしょうか?僕には、世界から見た所謂日本的な文化に我々は全くと言っていいほど親しみがないに思われます。世界からは、日本というのは非常にエキゾチックでミステリアスな国と思われているようですが、我々現代日本の若者にそういった文化があるでしょうか。僕は非常に懐疑的です。或いは、現代的日本文化として、アニメというジャンルは若者に親しみがあるといえるでしょう。しかし、実際問題として、アニメへの親しみは、インターネットを介して、日本だけのモノだとは言えない状況で、作り手達は日本に多くいますが、コンテンツの需要者としては、日本の若者において、世界と比較して特別アニメ文化への親しみが強いとか感性の基盤になっているとか、そういったことはあまり言えないような気がしています。もっとも、つまりは世界がグローバル化・フラット化しているということであるため、日本特有の問題ではないと思いますが、しかし、日本という国は比較的それが顕著なのではないか、と僕は思います。単に僕が日本という国を正しく客観視出来ていない可能性もありますが。

さて、話をアナクロニズムに戻せば、我々には本当のアナクロニズムは不可能ということになります。そして、時代適合的なことをやっても単なる量産の一つにしかなり得ない。コマーシャリズムに回収されるだけです。では、我々には出来ることなどないのか、というと、そう悲観しているわけでもなく、我々には我々の歌える「うた」があると考えているのです。それはまさしく、「ニセモノだからこそ歌える『うた』」であると思います。

帰属する先がない分、我々は自由と言うこともできるのではないでしょうか。インターネットは地球の裏側とまでコミュニケーションと情報交換を可能にし、そして60, 70年前のコンテンツにも容易にアクセスすることを可能にしました。我々は生きている時代や生きている土地という、先天性の強く自己選択性の薄い「環境」というものから解放されてきているのです。その非常に現代的な我々だからこそ、様々なものを経験・吸収し、まさに自由な感性というものをそれぞれが磨いてきたのではないでしょうか。そんな我々だからこそ歌える「うた」は必ず存在すると、希望的観測かもしれませんが、思うのです。

僕は今回のバンドでは、敢えて、アナクロニズムな音楽を、まるで演じるように演奏しました。所詮、結局的には不可能なアナクロニズムを、ニセモノはニセモノらしく開き直って、演じるという姿勢で追求しました。「フリージャズ」はカギカッコ付きの「フリージャズ」らしく、「ハードバップ」も同様に「ハードバップ」らしく演奏しました。しかし、結局は不可能でニセモノになってしまい、何か「らしくないもの」が滲み出てしまいます。そして、その滲み出てしまうものこそが「うた」ではないか、と考えたのです。

我々は最後に、Thelonious Monkの名曲'Round Midnightを演奏しました。これに関してだけは、某「らしく」やるのではなく、好きにやるようにしました。ただただ「うた」に徹し、何者でもない我々が何者を演じるわけでもなく、ただただ曲に、音楽に没頭するということを目指して演奏しました。これは先の二曲があったからこそ、より深いレベルで出来るものだと思いましたし、実際に、これまで達したことのない何処かへ達した瞬間を僕は感じました。それは、「フリージャズ」でも「ハードバップ」でも「ビバップ」でもない「うた」の境地でした。

そういう、滲み出てしまうもの、どうしようもない中で、しかしそれでも何かをする、せざるを得ない、そんな、ほとんど望みの見えない地平で、それでも生きていかなければならない、そんなときに口ずさんでしまう「うた」、そんなやりようのないものが、僕はジャズというものではないかと思えてなりません。それはある意味で祈りの一形態なのでしょう。ジャズの解釈は色々とありますが、音韻的にではなく、形式的にでもなく、非常に抽象的なそれとして、僕はジャズをそんなものに考えています。

正直、ジャズはもう大して発展しないと思います。しかしそれでも、我々がジャズをやる意味は消えない、そうとも思うのです。ただし、我々から「うた」が失われるその日までは。

*1:ライブ時にもこの喩えを用いてしまいましたが、他にもっと良い例えがあれば是非ご教示下さい

*2:この表現は僕はあまり好きではないのですが、敢えて使おうと思います