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時計というものの進歩によって、人間の時間の感覚・捉え方というものも変容してきたのだ、というテキストを読んだことがある。なるほど、かつては街に一つとかそれくらい*1しかなかった時計が、一家に一つ所有されるようになり、次第に腕時計という形で一人一人が時計を持つようになった。一つの時間が大きな共同体によって共有されていたのが、個々人に別々の時間を所有するようになってきた。それにより、時間というものがより個別的なものになってきたという筆者の主張は、一定の納得を覚えるものであった。

しかし、時計の形が変わっても、もっと言えば時計ですらなくスマホで時間を確認するようになっても共通していることは、あくまで自分から確認しなければ、時間は分からない、ということである*2。たとえ24時間腕時計をつけていようが、一度も見なければその人が腕時計によって時間を知ることはない。しかしそれでも、見ない間でも時計は文字通り一秒も休むことなく粛々と*3時を刻んでいる。

音楽にも似たような部分がある。バック・グラウンド・ミュージックはまさに背景の音楽。意識を向けることがなければ、そこにどんな音が鳴っているかは聴かれない。ブライアン・イーノが提唱し、作りあげた「アンビエント(Ambient)・ミュージック」はその最たるものであり、環境に溶け込み人々の言動を邪魔せず、しかし意識して聴こうと思えばそれもまた楽しめる、そんな音楽である。これらもまた、意識して聴かれていなくても、その瞬間瞬間、ずっと、音楽は鳴っている。

◆ ◆ ◆

ティッシュをムダに使うな。ティッシュは、実は元々木から作られている。だから、ティッシュをムダに使うと、木が伐採されて、森がなくなっていってしまう。地球環境を守るために、ティッシュはムダに使ってはいけない。

僕は子供の頃そう聞かされた記憶がある。そして、例えば僕がいまここでティッシュを一枚ムダにしたところで、もっと言えば僕が一生をかけてティッシュをムダ使いしたところで、木が一本でも多く切り倒されるだろうか、と疑問に思った。木一本分のティッシュがどの程度なのか分からないが、Wikipediaによれば*4日本人一人あたりのティッシュの年間消費量は4.5kgだそうなので、80年間このペースで使い続ければ360kgに達する。まぁそれは結構な量だが、それはあくまで80年間かけての話であるし、その中の「ムダ使い」の部分は一部であろうし、ある個人が例えばその二倍のスピードでティッシュを消費したとしても、それが流通のルートを逆にたどるように影響を及ぼして、木が一本多く切り倒されることになるとは僕は思えない。そういう人がいっぱいいたら、なんて話もされたが、僕がティッシュの使い方をどうこうできるのは僕という人間一人だけなので、みんなとか言われても知らないわけである。なんて言いながら僕はティッシュをムダ使いしたりはしないわけだが。みなさんもティッシュは大事に使うべきである。

◆ ◆ ◆

ある瞬間。その一秒。

とある一人が、

ティッシュを一枚、

ムダに引き抜いた、

その音。

 

それらは一体、どこに行くのだろう。

見られることのなかった、秒針の6°の動き。

木を切り倒すことはないであろう、ティッシュの一枚。

その時の音は音楽にもなり得たが、意識の外だろう。

 

それらは確かにそこに存在したが、その空間をわずかに震わせるのみで、ただ、立ち消えるのだろう。

*1:まさに上の写真がその時代のものであり、1462年に作られたプラハのオルロイ(天文時計)である。写真は今年実際にプラハに行った時に撮ったもの

*2:無論、教会の時計や昔ながらの掛け時計など正時に鳴る時計は、確認しなくとも自分から時間を知らせてくるが、しかしあくまで30分おきである

*3:この言葉も一時期話題になったが、あれは完全に言葉狩りですらない単なる誤読だと思っている。粛々という言葉に「上から目線」なニュアンスは全く含まれておらず、むしろ謙遜のニュアンスだ

*4:要出典となっているのであまりアテにならないかもしれないが