勉強について

f:id:gheetaka:20150627005104j:plain

※6/26:若干の加筆修正

無計画に書きます

僕は、何かを書こうと思うと妙に構えてしまって、好きな飲み物を用意し、座り心地のいい椅子、適度な温度の部屋、快適な道具(筆記具やノートやPC)を揃えた完璧な環境で、四股の一つや二つ踏み、さぁやるぞと気合を入れてからしか、とりかかることが出来ません。

もちろん今のは誇張を含みながら言ったわけですが、何かを書くことが妙にハードルが高い作業となってしまっているのです。

というわけで、今回はテキトーにあんまり考えすぎず無責任に何かを書いてみるシリーズ第一弾として、勉強について、思うところを書いてみたいと思います。

勉強は、大抵は大部分が「時期尚早」

僕は、某学習塾にてバイト塾講師をしていたりするのですが、そこで結構実感することの一つは、自分が小学校〜大学までと過去に触れてきた教材やテキスト、或いは勉強の内容そのものが、今のこの歳になって見返してみると、とても興味深いものであったり、面白いもの、心揺さぶられるものであったりするのだということです。

個人的に印象的なのは、数年前に中学生に国語を教えていた時のこと。テキストには、有名な小林一茶の一句が。

うつくしや 障子の穴の 天の川 ― 小林一茶

僕は俳句や短歌などに親しみは全くありませんし、そもそも学生の時分にそういうことをまじめに勉強したことも一度もなかったため*1、この句の持つほんとうの意味や味わい、背景などを語る言葉は持たないですが、当時僕はこれを見てうおおおおっと唸ってしまったのを覚えています。貧しいゆえの障子の穴、病床に伏した一茶がそこから天の川を見出し、その美しさをストレートに表現した一句ですが、僕はその世界観に飲まれてしまい、その生徒にこの句の素晴らしさを、自分なりに頑張って伝えようとしたのですが、生徒はきょとんとするばかり。先述の通り、僕自身も俳句に明るいわけでもなく、適切な説明ができなかったというのもあると思いますが、ただ、そもそも根本的な問題が有ります。問題というか、なんというか。当たり前といえば当たり前なんですが……。

小林一茶のすごさなんて、中学生にそうそう簡単に分かるはずがない

いや、もちろん例外はあるでしょうし断言も出来ませんが、普通に考えて、そりゃそうじゃないですか?そしてこれは、日本の(国語)教育に対する批判として言っているわけでもないのであしからず。

その他にも、小中高の教科書をパラパラとめくってみると、今の僕からすると、そこには種々様々な面白いことがあふれているようにみえるのです。しかし、その面白さというのは、なかなかその生徒(学生)自身の立場に立ってみた時には、理解できないというケースが大半だと思います。

上記のように単純にテキストがどうだという問題もありますし、そもそも「なぜ勉強をするのか」というところも理解が出来ないまま、「勉強」をさせられているのが実態であると思いますし、まぁそれに関してはこれまでも散々言われてきた問題でしょう。

まだn年早いわ!

つまり、まだ早いのです。彼らには。そして僕らにとっても、「まだ早かった」 のです。もちろん、ここには「伝える側の問題」もあります。つまり、その勉強の面白さというものの伝道師の役目を担うのが、教師をはじめとする周りの大人たちなのであって、それがちゃんと出来ていないから、「勉強はただやらされるもの」と子どもたちにとらえられてしまうんだ!という論も、まぁ一理はあるんじゃないかと思いますが、僕はここではその点よりもむしろ、「いや、そもそも時期が早いからしょうがない部分もあるよね……」という点を強調したいと思います。

勉強が「ベンキョウ」であることから解放されるとき

「勉強」という言葉を口にする時、その言葉の捉え方もなんとなく年齢を経るに従って変わってきたように思います。即ち、「勉強はただやらされるもの」或いは「やらなければならないもの」という価値観が、幼いころは強かったのが、段々と薄れていったり、むしろ「自分が学びたいと望むものを勉強する」という価値観が強くなってきたように思います。無論、これにはかなり個人差があるように思われるので、一般化することは出来ないと思いますが、しかしてある程度は共感を持っていただけるのではないでしょうか。つまり、幼い頃から「ベンキョウ」「ベンキョウ」と何度も耳にして来た言葉が、あるときから漢字を覚えて漢字でその概念を認識するようになりつつ、成長とともに次第にその捉え方が変容していき、当初の「ベンキョウ」から解放されてきたのではないか、と思うのです。そしてそのとき僕達は初めて、自分の意志で自由に学ぶことが可能になったのではないかと思うのです。

勉強に限った話でもなく・・・

これは恐らくそっくり「仕事」に置き換えても、話が可能かなぁと思っています。仕事についても、始めたての頃はほんとうの意味や重要性、面白さなどが分からないままやっている、ということが往々にしてあるように思います。これもまた「時期尚早」なんでしょう。そして伝える側の問題も、また内在しているでしょう。しかしもうこれは、「しょうがないこと」なんだろうと、思っています。色々と経て、長期スパンで見返したり、普遍化したり、他の経験と合わせたり、巨視的に見たりした時に、やっと分かるという構造になっているのだと思います。もっとも、その点で言うと仕事に関しては、ある程度の年齢・経験を重ねた人間であれば、小学生が勉強の意味がわからない、というのとはまた異なる状況になってしかるべきなのですが、まぁ、それに追い付いていない現状も残念ながら結構ありそうです。

そして、勉強なり仕事なり何らかの努力なりが「やりたいこと」「面白いと思うこと」になった時に、それらは「やらなきゃいけないこと」であることから解放されて自由になって、それからどんどんと吸収されていくのだろうと思います。

無計画なのがこの辺でボディーブローのように効いてきて苦しい

着地点が見えなくなってきましたが、勉強にしろ仕事にしろそれ以外のなんにしろ、やはり「やりたいことをやる」「面白いと思うことをやる」というのが、どう考えても大事なことのように思います。そして当然、それがなんなのかを発見するということも。「やりたいことをやる」というと好き勝手・好き放題・ワガママというイメージを連想することもありますが、ある程度の理性やら想像力やらという人間的な知性を前提とした上で判断される「やりたいこと」は、もっと長いスパンでのものであったり、巨視的なものであったりと、単なる好き放題より大きな意味を持ってくるように思います。そして、その「やりたいこと」が自分の物語が規定していくのではないかと思います。

さぁ、みなさんやりたいことをやりましょう

なんて書くと非常に月並みな言い方にはなりましたが、子供の頃接したテキストが時期尚早であったのと同じように、子供の頃耳にタコが出来るほど聞いてきた言葉が、実はとても大切な金言であったと後から気付かされたりするように、大切なことというのは往々にして、至極当たり前で聞き流してしまったり記憶に残らないような言葉であると思います。何周かして回ってきた時に、やっとその有り難みが分かるのです。

みなさまが、「ドリョク」から解放された努力を発見し、日々それぞれに邁進されることを願っております。

*1:じゃあなんで塾で教えているんだというツッコミは当然あってしかるべきものだと思います