『君の名は。』に見る欺瞞;対称性、必然性、童貞性

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(C) 2016「君の名は。」製作委員会

今月、Blu-ray, DVD発売とのことで、そういえば書いていなかった本作の感想を載せておこうと思います。一応言っておきますが、本稿では盛大に物語の核心にも触れていますので、未視聴の方はご注意下さい。

なにしろ歴史的な大ヒットの本作です。時折、否定的なコメントも見られるものの、基本的に世間においては絶賛の嵐なわけです。そんな中、僕としてはなんとも微妙な評価をしていて、決して悪いアニメではないと思いますし割りかし面白かったと思うのですが、なんというか「おざなり」な印象は拭えず、見終わった直後には頭の中には疑問符がたくさん浮かび、考えるにつれ色々と分かってきたのですが、それは「何が納得行かないか」が分かってきたのであって、評価が好転することはありませんでした。良し悪しで言えば、どちらかと言うと良い、くらい。好き嫌いで言えば、どちらかと言うと嫌い、くらいです。

では何が「おざなり」なのか。巷でよく言われる「彗星の軌道がおかしい」といった指摘や「物語がご都合主義だ」といった指摘とも、少し異なります。前者については、中学生レベルの間違いであるので、まぁ単純にダサいのですが、それを以て作品の評価を下げるというのは、個人的にナンセンスであると思います。無論、これがSF作品であれば、そんなミスは許されませんが、本作はSFではないと思いますし、SFとして見るのは流石にミスリードと言わざるを得ません。同様に、ちょっと次元は異なりますが、タイムパラドックスを指摘するのも、ちょっと本質と違うかなぁと。また、後者については今敏監督『東京ゴッドファーザーズ』という、ご都合主義上等の姿勢でめちゃくちゃ面白い作品がありますし、別にご都合主義だろうと面白い作品はいくらでもあるはずです。本作にリアルさを求めるのもお門違いでしょう。「なんで周りは気づかないのか。また本人たちも入れ替わりの『真実』について何故気づかないのか。」「何故電話やメールをしなかったのか」なども同様。言ってしまえば「野暮」です。

では何が「おざなり」なのか(二回目)。それは、主人公二人の物語構造における対称性と、その出会いの必然性についてです。

本作は、「入れ替わり」や「タイムリープ」といった要素を取り入れながらも、その根幹にあるのは「ボーイミーツガール」「ガールミーツボーイ」です。こういう類の物語には様々な形があると思いますが、「入れ替わり」というギミック、田舎と都会という対照性など、厳密な意味でのシンメトリーではないですが、この二人の主人公たちが対称的に物語の中心に位置していることは、シーンの描き方などから見ても明らかです。三葉は東京に行き、瀧は糸守町*1に行ったシーンもありますし、これも対称的です。そして、この二人の出会い・入れ替わりが、物語の軸にあります。

二人の絆

ではその二人を結びつけたのは何なのか、というと、一つの答えは「組紐」なのですが、それ以前に、入れ替わりの発生原因を考えねばならず、直接的というよりも間接的な要因となるでしょうが、これはやはり、「ティアマト彗星」に他ならないでしょう。ティアマト彗星が糸守を滅ぼしてしまう、それを避けるための入れ替わりであり、その能力を持つのが三葉の家、宮水家の巫女の血筋です。そして、その破滅をもたらすはずの彗星は、本作において非常に美しく描かれます。彗星じゃなくたって、隕石とかだっていいはずで、もっと恐ろしく描くことだってできるはずですが、本作の破滅は美しき彗星の形を取っています。それはやはり、この彗星の存在によって二人は出会うからであり、この出会いが本作の主題だからです。この彗星が割れ、その「片割れ」が糸守を破壊し、二人を生と死によって分かつ、というのも象徴的です。

こう書いていくと、よくできた作品に思えてきます。また、僕が本作において評価しているのは、民俗学的なモチーフや、言葉遣いの上手さです。「組紐」や「口噛み酒」といったパーツを象徴的に捉えて物語に組み込んだり、「彼は誰(かはたれ)時」→「片割れ(かたわれ)時」という方言的な変化は結構ありえそうだなぁと思わせつつ、それを物語の重要なところにガッチリ絡ませる手腕は、正直言って感嘆してしまいました。それ故に「ご都合主義」とも言われるような部分についても、僕はちょっと言いくるめられてしまっている感が否めません。

が、どうしても納得できない点がいくつかあり、しかもそれが物語の根幹にある「ボーイミーツガール」「ガールミーツボーイ」の観点において、致命的に思われます。

三葉の突然の行動の謎

一つ目は、先述の「組紐」について。瀧はずっと組紐をブレスレットとしてつけていますが、これは三葉が瀧に会いに東京に行った際に渡したものです。この時点では瀧は三葉を知りませんが、三葉はまさか入れ替わりが3年の時をも隔てたものとは思いもよらないので、会いに行ったのでした。しかし、ここで疑問がわきます。何故、三葉は突然学校を休んでまで、急に岐阜から東京まで、しかも手がかりもほとんどないままで、瀧に会いに行ったのでしょうか。物語上は一応、瀧が先輩とのデートをする日であるとされ、それが気になって、という風に描かれますが、それにしても奇行です。

ただこれは、あくまで「デートが気になって」というのは名目でしかなく、実際には瀧自身のことが気になって、好きになってしまって、小さな嫉妬心のようなものも相まって、会いに行ったのだ、とするのが妥当でしょう。が、これが、これこそが問題です。即ち、いつの間に三葉は瀧のことが気になったり、好きになったり、していたのでしょうか。

これは「行間を読め」とかいう話でなく、画面上での物語の見せ方の問題をはらんでいます。三葉と瀧は、入れ替わりが起こっているさなかにおいては、直接会うことはできなかったわけで、まさに入れ替わっている間と、入れ替わったあとに、相手の行動の痕跡を周りの人間や自室の状況などから感じ取ることでしか、お互いのことを知る手段はないわけです。では、その入れ替わり期間において二人はどのような行動を取っていたか、というのは、観客にも見せられますが、ちゃんと描かれるのは「瀧 in 三葉」だけであり、「三葉 in 瀧」については、おっぱい揉んだり揺らしたりくらいしか描かれず、観客的には瀧という主人公の内面がいまいち分からないまま、物語が進行します。一方三葉は、友人たちとの日常や、バイト中の振る舞いであったり、奥寺先輩と瀧の恋を応援してデートの約束まで取り付けたり、など色々と行動を見ることができて、三葉というキャラクターの魅力は、観客に十分伝わるように思われます。そこに非対称性があります。

そんな中、入れ替わりが起こらなくなり、彗星が落下し、糸守は滅び三葉は死にます。観客は三葉に対して感情移入できていますし、「入れ替わり」という奇妙な縁が突然切れてしまった、ということから、なんだか胸騒ぎがして三葉を探しに行く、或いは、三葉のことが気になってしまう、という瀧の行動・感情も、十分理解可能であると思います。この旅の中で、観客としてはやっと瀧の人格が分かってくるわけですが、しかし、とは言えこの後、町民の避難に奔走する中で明かされる、先述した三葉の上京については、やはり「うんうん、瀧くんはこうやって糸守町を救おうと頑張っていていいヤツだし、入れ替わりの中でも(なにも描かれなかったけど)きっと三葉が何か魅力を感じるような素敵な行動をしていて、それで三葉は瀧くんを好きになったのだろうなぁ、そういえば瀧 in 三葉もモテていたし」なんて大回りした理解には流石に気持ちが追いついてこず、「え、なんで三葉、急に東京行ってたの…」となってしまいました。

「入れ替わり」の必然性

問題の二つ目は、この「ボーイミーツガール」「ガールミーツボーイ」によって、その出会い・入れ替わりによって、ティアマト彗星衝突の破滅から抜け出す、というのが、本作の非常に重要なプロットのはずですが、よく考えてみると、そうでもないことが分かります。というのも、最終的には三葉が自分の身体に戻ってから、町長である父親を説得し、それで避難が実現したためです。もちろん、ここには瀧と仲間たちとの奔走も前提としてはあるのですが、決め手が三葉自身になってしまっているので、どうも「入れ替わり」によって破滅を回避した、という線が弱まってしまっているように思われます。三葉が瀧、否、瀧だろうが誰でもいい、少し未来の適当な誰かと入れ替わって、彗星落下についての記事やらニュースやらを目にする、とかで良かったんじゃないか、いやなんなら、入れ替わりである必要すらなく、予知能力的なものでよかったんじゃないか、とかそんなことを考えてしまいます。ここはあくまで「瀧 in 三葉」でしか成せなかったような方法で、破滅の回避をする必要があったのではないか、と思うのです。そうでなくては、瀧と三葉の出会う・入れ替わる必然性が揺らいでしまうので、物語が完全に瓦解してしまいます。

それでも成立させる新海誠の筆致

正直言って、本作は基礎工事に欠陥があります。しかしながら、それでもこれだけのヒットを飛ばし、多くの人々に受け入れられたのは、新海誠監督ならではのシーンの美しさと、川村元気氏のプロデュースの手腕に尽きると思います。また、もちろん語るに外せないのはRADWINMPSによる劇中・主題歌です。これは非常に話題になりましたし、存在感がありました。個人的には、残念ながらとても鼻に(耳に?)ついて*2、印象が良くないのですが、まぁ一般には広くウケるであろうと思います。こんな言い方もなんですが、とにかく見てくれが良いのが本作だと思います。上記で指摘したような構造上の問題など、多くの人に気にさせないようなテンポの良さと、シーン・音楽の力によって、もはや一種のパワープレイ的に作品を成立させて見せてしまっているのです。

本記事のタイトルに、敢えて「欺瞞」という強い言葉を使いました。それは、上記のようにパワープレイであることについても勿論そうですし、新海誠監督作品がときに「童貞」という言葉とともに語られることとも、少し関係しています。僕は新海誠作品に「童貞」感をあまり感じません*3。が、しかし、「そういった風に見せようとしている」という感じ、或いは、「そういう純粋さへの憧憬」のようなものを、どこか感じるのです。『君の名は。』については、物語においては新海誠の作家性がある程度抑えられた上で、しかし彼の描くシーンの美しさはそのままに、大衆性を獲得し、大ヒットを産んだのだと思いますが、一方で本作においても「童貞感がある」といった批判も見られます。断じて違うと思います。本作に限らず、新海誠の「童貞感」は欺瞞であると思います。主人公・瀧は、その人物があまり描かれないままに、必然性無く三葉と(こちらは魅力的に描かれる)繋がり、とある「イケメン高校生」として、理由なくモテて、最終的にヒロインとハッピーエンドを迎えます。これを童貞の妄想と見るか、強者の論理と見るか、によって分かれるのかもしれません。しかし、どうにも僕には後者に見えてしまうのです。それは、単に「高校生」「青春」「ラブコメ」などのキーワード等に因るものでなく、「懐疑のない者ほど楽しめる」というまさにリア充的構造によって、言えるのではないでしょうか。「本作は例外である、新海誠の本来の作家性は童貞性にある」という声もあるでしょう。が、それに対して、「結局この新海誠という監督は、なんだかんだ、ここまでの大ヒット作品を作れてしまっている」と言うのは、最早僻みに近い邪推にすぎるのでしょうか。

*1:あえて野暮なツッコミしますが、人口約1,500人しかいないとのことなので、コレ絶対町じゃなくて村です。糸守村でよかったじゃん?なんで町ってことにしたん??

*2:別にちゃんと見てなかったのですが、2002年のドラマ『天体観測』においてBUMP OF CHICKENの曲が非常に鼻についたのと似ています

*3:と言っても、本作と『秒速5センチメートル』しか見たことがないですし、これから見るつもりもないのですが。ちなみに『秒速』は個人的に最悪の映画で、本当に時間を無駄にしたと思いました