原田卓馬さん

本当はさっきまで、小出恵介騒動のことを書いていたのですが、やっぱり本当にどうでもいいと思っているので、どうにもノってこなくてピンとも来なかったので中断し、それよりも遥かに優先して書くべきこの人のことを書くことにしました。

f:id:gheetaka:20170615000212j:plain原田さんのtwitterより)

 原田卓馬さんは、ちょうど一週間前、6月7日の大塚MEETSでのライブイベント『溢れ出す』に夜窓で出演した際、共演者の一人でした。彼は三番手でした。その前の出番のユニットが終わって、僕はそのステージ上の片付けをぼんやりと見つつ、次はどんな人なのかなぁとちらりと考えながらも、主に手元のスマートフォンに視線を落としていました。

気づいたとき、彼はもう居ました。それも、思っていたよりもずっとそばにいました。

彼はステージに立たず、客席のど真ん中に、一つの白熱電球を足元に置いて、アンプはおろかマイクも使わずに、手にした一本のギターを弾き始めました。曰く、「音楽の歴史において電気というものを使うようになったのはごく最近である」と。彼は暫く語ったあと、歌い始めました。

ライブの共演者について書くなんてことはこれまでにしたことがないのですが、こうして書きたくなるようなパフォーマンスでした。

なんとなく七尾旅人を彷彿とさせますが、しかしそれとも異なる独特な声、日常的で夢想的な手触りの詞、ときに弦が悲鳴を上げそうなほどにかき鳴らされ、ときにほのかに揺れるほどのギターの音、それらによって醸される彼の音楽は、一つの電球を中心としたその小さな世界を包み込んでいました。

ああそうか、と思ったのは声の方向のことで。マイクで拾って左右のスピーカーから出される音は、当然スピーカーと観客との位置関係に基づいて聞こえるものです。そうすると歌い手と観客の関係性は間接的なものになってきます。しかし、そういったものを使わず生の地声のみで歌うとき、観客と歌い手の関係は当然に直接的なものになります。原田さんは向きを変えたり、ウロウロしたりしながら歌っていましたが、その声の方向が自分の方を向いた瞬間、生理的な反応として、その声が自分に向けられたものであるという感覚が芽生えます。歌というものにおいて、それが自分に向けられているという感覚は極めて重要で、その歌が聴き手に、その内側でプライベートに鳴っているという感覚(錯覚と言っても良い)を持たせたとき、その歌はその人に「響いた」と言えるのではないかと、そう思っています。彼の歌は、僕には確かに響いたように感じられました。

歌が、音楽が響いたとき、そこには自分と音楽との二者関係のみが存在し、その他の世界は消え、それは人にとって、一つの救いとなりうるのではないかと思っています。

原田卓馬さんの歌は、まさしく「歌」であって、その始原的な何かを感じられるもので、多くの示唆を含んでいるような、それでいてただ身を委ねれば良いような、そんな、ただその時間と空間にしか存在しない、たゆたう煙のような存在でした。

僕らのバンドも含めて終演後、原田さんと少し言葉を交わしました。というか、原田さんからはとめどなく言葉が流れ出し、とても興味深いお話だなと思いつつ、情報量が多すぎて正直あまり覚えていません。。音に機械を通すことによる損失のはなし、生楽器のはなし、デジタルのチャンネル数のはなし、祭りのはなし、などなど。もっと話したかった、話せばよかった、なんて思ったり思っていたりしますが、コミュニケーションとはなかなか上手くいかないものです。

僕は彼のような人を見ると、どうにも自分はあらゆる意味でプレイヤー・パフォーマーとは異なる存在に思え、かと言ってこうやって文を連ねてみても、誰かに何かが届くものか判然としないのですが、それでも人間の歴史は道具の歴史である以上、自分も人間として手の中にある「道具」でただ「すること」をしよう、と原点に立ち返らされる心持ちです。