演劇という物語媒体【唐組『ビンローの封印』を見て】

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唐十郎率いる唐組の紅テント芝居『ビンローの封印』を見ました。

僕は舞台演劇に明るいわけではないので、その分解能にはそんなに自信がなく、正直に述べれば、僕はこの作品を理解できたとは思ってはいません。そして、たとえば見終わった直後に、率直に言って素晴らしい作品だったか、或いは好きな作品だったかYES/NOで答えろ、と迫られたら、NOと答えてしまったかもしれません。

しかし、見られてよかった、面白い作品だった、とも感じていて、それはこの作品が僕にとって一つの考える契機となったからです。物語媒体としてのゲームでも類似の内容を書きましたが、演劇だからこそ得られる物語体験、というものを強く意識させられたのです。その意味において、この作品は非常に「演劇的」だったように思われました。

プロット把握することを拒否する演劇

座ることを拒否する椅子*1にも座ってみた僕なので、本作に関してもプロットを把握しようとはしてみて、そして終劇までその努力は続けていたのですが、徹底して物語は荒唐無稽に展開し、セリフは超高速で連ねられ、ときには現れる登場人物たちも一体何者なのか分からないまま、意味不明なエピソードやくだらない笑いをも散りばめながら、凄まじい速度で疾走する舞台には、ついぞ最後までついていくことはできませんでした。

本作はその点において特に極端であるとは思いますが、しかし舞台演劇というものは大なり小なりそういうところ、プロット把握を容易にはさせないところがあるように思います。役者が台本を元に演技をして、それを観客が見るという構図は、映画と同様なわけですが、しかし映画と比してやはりプロットが把握しにくい傾向があるように思います。では映画と舞台の違いはなにかといえば、当然カメラの有無です。

カメラは、ある特定の四角い視野を観客に強制します。それは秒単位で変化したり、また同じ視野の中でも何かにフォーカスしたりします。視点・視野が極めて恣意的に構成されている点において、演劇が分かりにくいというよりも、むしろ映画の方が分かりやすくできている(ことが多い)と言うべきかもしれません。ちなみに、恣意性という意味ではアニメはその極致と言えるでしょう。実写であれば「写ってしまうもの」というものがありますが、アニメにおいてはそれはなく「描かれたもの」しか画面上には登場しないわけです。それ故にやはり、よりプロットが理解しやすいと言えるように思います。

ともあれ、演劇のプロットの理解のしにくさはつまり、「何を見れば良いか」が観客に委ねられていることに基づいているように思います。そのことにより、観客は大量の情報を処理しなければならなくなります。そもそも舞台演劇には驚くほどの情報量があります。映像という、平面上で表現されるものと比べれば、やはり舞台演劇の情報量は圧倒的で、台本、演技、美術、音楽などといった要素に分類してみれば、映画にも共通であるように思えても、同じ空間に居るかどうかは、決定的な差です。それによって受け取る情報量は、経験せずに考えているよりも大きく異なります。

記憶喪失と物語整理

『ビンローの封印』は、先述の通りその傾向をさらに加速させているわけですが、では、そのプロット把握を拒否するということは何を生み出すのでしょうか。これを考えたときに僕は、菊地成孔とペペ・トルメント・アスカラールによるアルバム『記憶喪失学』をふと思い出します。映画を見たのにも関わらず、その内容が思い出せない、そんな記憶喪失を菊地氏は本作のライナーノーツ上で述べていましたが、完全な記憶喪失と言わずとも、誰しも(超絶的な記憶力を持っている人は除く)映画を見れば時間が経つに連れ記憶は失われていきます(正確には思い出せなくなります)。そして僕は、それと同時に物語の整理が行われているように思います。「そんな話だったっけ?」なんてこともままありますが、話のざっくりとした大枠は時間が経っても覚えているものです。

TSUTAYAでアルバイトをしていたときに「『整理』とは捨てることである」ということ――これはレトリックでも何でもなく、単純に日本語の語義のはなしです――を教わったのですが、記憶の「喪失」も一種の脳による「整理」です。

何を言っているのかというと、つまり、この極めて難解に思えた『ビンローの封印』も、時間が経つに連れて「整理」されて、なんとなくの物語が残り、それがかえって作品の理解をしやすくして、輪郭を成していくのではないかということです。というか、実際にそれは僕の中で既に起きています。ともすれば、何しろ情報量が多い本作、脳に任せているその「整理」或いは「喪失」は、本来の物語とは異なった輪郭を削り出してしまうかもしれません。しかし、先述の通り視点を観客に委ねている演劇ゆえ、心に残る物語の輪郭もまた観客に委ねる、それもまた演劇の一つの面白さであると言えるように思います。

言ってしまえば、結局何を見たところで時間が経った後に残っている物語は、ざっくりとしたそのシルエットだけです。そもそも、記憶に残すということが物語に触れる目的でもないはずです。あとに残るものに大差がないなら、その触れた瞬間の経験がより鮮烈で劇的なものである方が「勝ち」ではないか。僕はそんなメッセージを、あの凄まじい熱量を放って駆け抜けた舞台演劇から、勝手にかもしれませんが、受け取った心持ちがしています。

「僕はあの作品を見たことを決して忘れないでしょう」そんなことは言いません。僕は忘れるでしょう。次第に、シルエットすら残らず消えてしまうかもしれません。しかし、闇マーケットのヘンテコな名前のヘンテコな登場人物たちのヘンテコな掛け合い、カラオケ指導員和辻哲郎」の気が違ったような叫び声、背景が抜けて新宿・花園神社のさめた音や空気が紅テント内に入り込んで奇妙な不調和を醸し出したあの感覚、、一つ一つの経験はふとした時に脳裏をかすめ、その時、あの熱情、あのビンローの鮮やかな赤が、胸に浮かんでくるのかもしれません。

*1:岡本太郎作品。座るととても痛い