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宮﨑駿の引退作としての『風立ちぬ』

風立ちぬ [Blu-ray]

昨日づけで、上記の通り宮﨑駿監督が新作長編アニメーションのためのスタッフを募集し始めました。ジブリの映画製作部門が解体になっているためでしょう。今回の宮﨑駿の引退撤回自体は、NHK BS1のドキュメンタリー『終わらない人 宮﨑駿』によって広く周知することとなっていましたので、今回の募集はついに、という感があります。

しかし、変な言い方ですが、僕は『風立ちぬ』が宮﨑駿の引退作だと思っています。それこそせめて、完成させたという短編作品『毛虫のボロ』を見てから言うべきとも思うのですが、僕は『風立ちぬ』を見たときに直感的に「なるほど、これは引退するわ」と思いました。それは、宮﨑駿が引退することを予め知った上で持った感想なので、後出し的でもあり、これまではあまり言う意味はなかったのですが、引退を撤回した今であれば少し意味を持ってくると考え、ここに書いてみようと思います。

そもそも宮﨑駿の引退・引退撤回はこれに始まったことではありません。

宮崎監督はこれまで何度も引退発言してきた。「紅の豚」(92年)で「アニメはもうおしまい」と話せば、「もののけ姫」(97年)では「100年に1度の引退の決意」「これを最後に引退する」とまで発言。さらに「ハウルの動く城」(04年)でも引退を示唆した。

この三作の直後、というのも個人的には色々と思うところがありますが、とは言え、それらと比べて『風立ちぬ』の引退宣言は少し別格(?)に思えます。

ファンタジー不在の『風立ちぬ

その理由の一つは、『風立ちぬ』が非ファンタジーの作品であることです。
これまで宮﨑駿作品は、基本的に全てファンタジーでした。彼の作り出すファンタジー世界には子供たちだけでなく大人も引き込まれる力があり、彼の作品の大きな魅力でした。同時に、その世界は現実・現代にも通ずる普遍性を持っていて、そのことは作品の、いや、彼のメッセージをより浮き彫りにしていました。

しかし『風立ちぬ』にはそのファンタジーが基本的に存在しません。僕は、唯一本作においてファンタジーが導入されているのはラストに近い、零戦の飛行実験が成功した直後に風が吹くシーンだけだと考えています。この風によって、二郎は菜穂子の死を悟ります。これ以外は、二郎が夢の中でカプローニと邂逅するのも単なる彼の見た夢であると考えられますし、その他は地震などの描写がリアルではなくアニメーション的なシーンがあるくらいで、ファンタジー的なものはなかったように思います。が、それは彼の作品から大きな魅力が抜け落ちたということを意味せず、むしろ彼が自分の作品世界を表現するのにファンタジーを導入する必要もなくなってしまった、というように僕には感じられました。現実世界を舞台にしても、彼は十二分に自分の表現ができるようになってしまった。勿論一般には、ファンタジー=アニメーションではないのですが、宮﨑駿という作家においてはアニメーションという表現手法とファンタジーというものは、非常に近しいものであるように思えます。いずれにせよ、もはやファンタジーを必要としない域にまで達した、というのは彼にとって一つの大きな契機であるように思われます。*1

宮﨑駿のあきらめ

理由の二つ目は、本作においては宮﨑駿がそのメッセージを発することを諦めたように思われたからです。
これは、本作にメッセージが含まれていない、という意味ではありません。しかし、これまでの作品で繰り返し繰り返し発してきたメッセージは、本作にはありません。むしろ、立場を翻したと言うべきでしょうか。

例えば『風の谷のナウシカ』と『もののけ姫』が非常に近しい作品であるのは、同意が得られやすいと思うのですが、その他の宮﨑駿作品をとっても、基本的にはメッセージは同じだと考えています。即ち、人間の欲望への警鐘です。自然からしっぺ返しを食らったり、戦争で自滅していったり、豚になったり、描き方は異なっていても、一貫して発しているのはそのメッセージであると言えます。

では『風立ちぬ』ではどうか。主人公である堀越二郎は最終的に「国を滅ぼした」人間として描かれます。真偽はさておき、零戦を作ったことによって戦争を長引かせたという観点からでしょう。夢の中でそのカプローニに「君はピラミッドのある世界と、ピラミッドのない世界、どちらが好きかね?」と問われたときに「僕は美しい飛行機が作りたいと思っています」と答えるのが象徴的です。人民を搾取してでも己の欲望を満たすために作り上げられたピラミッド。二郎の答えは、他の人間を犠牲にしてでも自らの欲望に即して作りたいものを作る、理想を追い求めていくという選択を意味します。これを、過去作品と同じように「人間が欲望を追い求めていったら滅びにつながる」と、人間の欲望への批判であると読み取ることも可能かもしれませんが、言われつくされているように、二郎というキャラクターは宮﨑駿自身を描いていると思われるため、立場が反転しています。つまり、宮﨑駿は、自らの欲望、クリエイターとしての業に自覚的であり、それを、よく言えば受け入れてしまった、悪く言えば開き直ってしまった、ということだと言えます。*2

そもそも宮﨑駿という人は兵器大好きオタクです。高校生時代に雑誌『世界の艦船』に寄稿していることからも、そのことが伺えますが、その一方で反戦的な立場に立って作品を作っていたのは、本人も自覚的なんでしょうが、ある種矛盾しています。『紅の豚』という趣味に走った例外を除けば、封じ込めていたはずの作家性・人間性です。

僕には、それをさらけ出してしまったというのは世界に対しての諦めのようにも思えます。これは『風の谷のナウシカ』と『もののけ姫』が象徴的だと思います。『ナウシカ』には鮮烈でストレートなメッセージ性があります。しかし世界は変わりませんでした。そして13年の時を経て『もののけ姫』という同位体のような作品を、重ねるようにして作り出し、日本映画の興行記録を塗り替えるほどにヒットさせ、世界に対して警鐘を鳴らしました。それでもやはり世界は変わらない。宮﨑駿は、こういう無力感を何度も何度も経験していたのではないでしょうか。その末に、あきらめとしての『風立ちぬ』があるのではないか、と僕にはそう見えます。

しかし一方で本作は、その受け入れなければ、開き直らねばならない、どうしようもない自分自身、その業というものを見事に描いていて、それはひどく個人的なものにも思えますが、同時に普遍的でもあり、僕はその点において『風立ちぬ』に非常な感動を覚えます。

宮﨑駿の「引退後作品」としての新作

とは言え事実として、宮﨑駿はこれから長編アニメーション映画を再び作ることになります。その作品が、一体どういうものになるのかは分かりませんが、少なくともその新作と『風立ちぬ』の間には、大きな区切りが引かれるべきと思います。僕はその新作を「復帰作」ではなく「引退後作品」と呼びたいと思っています。それが、これまでの宮﨑駿作品と比べて劣ったものになる、と言うつもりはありませんが、何らかの意味で別物になる、という確信に近い感覚があります。完成は2019年予定ということですから、見られるのは2020年のことかもしれませんので、まだだいぶ先のことですが、楽しみでもあり、怖くもある、そんな気持ちで待ちたいと思います。

*1:2011年3月に行われた、宮﨑駿が企画・脚本で参加した宮崎吾朗監督作品『コクリコ坂にて』の会見においては「今はファンタジーを作る時期ではない。(中略)今こそ等身大の人間を描かなければ。」と発言していますが、それと関係があるのかは不明です。個人的には違う文脈に感じられますが

*2:こんな記事も見つけました。「国を滅ぼした」はカプローニによる賞賛である、と。果たしてその読解が正しいかは分かりませんが、確かにそう読むとよりしっくり来るとは思います。→ カプローニ先生と二郎先生の激熱師弟関係/風立ちぬ - 指輪世界の第二日記