国語と算数のできない大人は本当に意味が分からない

僕は個別指導の学習塾でバイト講師をしてるのですが、子供というのは本当にすごい、なんて言うと月並みな感じですが、少し前までは一つもやる気がなくて同学年の子と比べて明らかに幼い、ちょっとした問題児みたいな小学生が、見違えるほどとまでは言わずとも、いつの間にか好奇心やら向学心やらが芽生えていて自然に勉強に取り組むようになっている、そんなのを目の当たりにしたりすると、人間の学習や成長とは本当に素晴らしい、なんなら少し怖いくらいのものだな、と思ってしまいます。

しかしそんな一方で、いい大人なのに国語やら算数やらができない人と出くわしたりすると、いや正確には、そんな人の「国語・算数できなさ」に直面すると、なんだか苛立ちを覚えてしまいます。もちろん、お勉強的な意味での国語・算数自体ができなくてもいい、言い換えれば国語・算数の問題を解くためのスキルがなくてもいいのですが、国語・算数を学ぶ過程で培われるような、論理感覚とでも言うのでしょうか、そういったコミュニケーションの素地になるものを持っていない人というのは、思っているよりも平気で居て、遭遇するともらい事故のように不快な思いをさせられたり、不利益を被ることになります。しかも大抵、そういう人って無自覚で悪意がなかったりしますし、更に、なにしろコミュニケーションが満足に取れないのでたとえ本人に伝えてものれんに腕押しというやつで、彼または彼女がそのまま大人になってしまった所以を思い知らされることになります。本当に対処不能、歩く理不尽みたいなものです。

例えば自動車のもらい事故というのは、遭うときは遭ってしまうものですが、なるべく確率的に遭いにくいようにする、という努力の仕方もあります。

クルマの危険回避術!もらい事故を防ぐテクニックと事故後の正しい対応:カーピックス

まとめると“もらい事故”にあわない人は、周りに気を配りいち早く危険を察知し、自分が次にどう動くかを周りへ伝えるコミュニケーションが上手い人だと言えるでしょう。

結局この件についても通ずるものがありそうです。加えて、事故に遭いにくい環境を選んで身を置く、というのが妥当な対策であろうと思われ、一抹の寂しさを覚えますが、止む方なしとするべきかもしれません。