読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

この世界の片隅に

本当は、少し前に試写会で見たハリウッド版GHOST IN THE SHELLについて書くのを先にしようと思っていたのですが、如何せん情勢的に、以前から書こう書こうと思っていて書けていない『この世界の片隅に』について、今こそ書かなくてはならないのではないかという念が突如沸き起こり、床に入りながらスマートフォンで書いています。そのため、走り書き程度の内容となること、ご容赦ください。

片渕須直監督によるアニメ映画、こうの史代氏によるその原作漫画の両方を読みましたが、どちらも素晴らしく、またアニメ化が非常に「適切に」行われたようで、その本質部分はどちらも同じところにあるように感じました。太平洋戦争の戦前・戦中・戦後における日本を舞台にした本作ですが、戦争を扱う重いテイストの作品では決してない、というのはもう言われ尽くしていて最早言うまでもないのかもしれません。たとえ戦争の中でも普通の人が普通に暮らしていた、その日常を淡々と、時にコミカルに描いた作品です。戦争中、というと現代日本に暮らす我々からするとあまりに縁遠いように感じられるようですが、そこには我々と変わりない人間の暮らしがあったのだということを、膨大な資料をバックグラウンドにしつつ、この作品は教えてくれます。

さて、本作は、見た人にとってどのような作品になったでしょうか。感動作でしょうか、それとも娯楽作か、或いは何かの教訓を得る元となったでしょうか。個人的にはそのどれでもない、非常にダメージの大きい、絶望的な作品に感じました。この、戦争中という圧倒的非日常を舞台にした「日常系」作品は、僕に「如何なる非日常にあっても、日常は形を変えながらも死ぬまで継続する」という、一見すると矛盾した事実を突きつけたように感じられました。

本作において、戦争は主人公すずから多くのものを奪います。大切なものや、自分のアイデンティティとさえ言えるもの、それらを奪われて、その度にすずは傷つき、しかしそれでも彼女の日常は続きます。それを、健気だ、人間は辛いことがあっても、また厳しい状況でも、必ず立ち直って生きていくことができるのだ、というポジティブなメッセージを受け取ることも可能でしょう。しかし、僕にはどうしてもそこから、決して逃れることのできない「日常」のおぞましさのようなものを感じずにはいられませんでした。

終末論のように、人々の意識のどこかには、「そのうちなにかデカい一発が来て、それが日常をキレイさっぱり終わらせてしまう」というようなイメージがあるように思われ、それを恐れながらも、しかし少しそれを望んでいるようでもある、そんな心情は多かれ少なかれ誰しも持っているのではないかと思っていますが、ノストラダムスの大予言の大ハズレや、テロなどの数々の事件や災害などを経るたび、終末なんてものが幻想であるということにも、誰しも気付かされていくものだと思います。そして、浅野いにおの『ソラニン』が描いたような、平和で退屈な日常を重ねることによる緩やかな死、或いはそれに耐えきれずに死を選ぶ者、そういうものがテーマになってきます。浅野いにおはそういったもやもやとした名状しがたい苦しみのようなものにどう向き合うか、ということをテーマに色々な作品を描いている作家だと勝手に思っていますが、その文脈で『この世界の片隅に』を見ると、完全に絶望的に思えてくるのです。つまり、どう向き合うかもなにも、死なない限り、どう足掻いても足掻かなくても、どんなことが起きても、幸福だろうが不幸だろうが、自分が自分でなくなってすらも、「日常」は続いていくのだという絶対的宣告が、含まれているように思います。

冒頭、「情勢的に」と言いました。これは今の日本のおかれた状況、つまり北朝鮮とアメリカの間の緊張が高まり、毎日のようにテレビでは、核や毒ガスを積んだミサイルが明日にも飛んでくるのではないか、飛んできたら着弾何分前に分かる、その時の警報はこうで、避難すべきは何処で、などの報道がなされている状況を指してのことです。しかし、そんな状況下でも当然人々はいつも通りの日常を続けています。どうせ飛んでなんてこない、なんて思っていたり、もうじきに戦争が始まってしまう、なんて思っていたり。戦争を経験していない人々の方が圧倒的多数となったわが国において、我々には全く関係ないはずの戦争が、じわりじわりと近づいてきているかもしれない、なんて思いながらも我々は日常を続け、そして本作が描くところによれば、たとえミサイルが飛んできて戦争が始まっても、自らが死なない限り、「日常」は続くのです。その様相は、まさしく『この世界の片隅に』が描いていたようなものではないかと僕には思えるのです。

本作の漫画原作の冒頭には、こんな言葉が載っています。

「この世界のあちこちのわたしへ」

第二次世界大戦における太平洋戦争の中の日本の広島の呉にいるすずという(架空の)女性、その人そのものを描いている、或いは彼女に代表される戦時下の日本の市井の人間を描いている、そういった個別具体的な描写・記述に本作の趣旨があるならば、わざわざこういった言葉は掲げられないはずです。この言葉は本作の普遍性を象徴的に表していると言えるでしょう。

普遍的希望か、はたまた普遍的絶望かを。
広告を非表示にする