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2015-2016;ストーリー・アディクテッド・ピープル【ベッキー〜書き時計〜トランプ/不安定化社会(95, 9.11, 3.11)】

現代 時事

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"Fitter Happier" by Radiohead from "OK Computer" ©MasterMp3.net

※16/6/2:見出しを追加し、微妙に加筆修正を行いました

昨年12月以降更新をサボっておりました。

これにはまぁ色々とあったのですが、世の中でも色々とあったようで、それに対して思うところも色々とあり。そこで、このところ考えていることを一気に放出してみようと、書いてみました。

と、今回はふつういくつかのテーマに分けて書くようなものを一まとめにしています。これは、貯めこんだ分一気に、というのもありますが、一見別々に思われるそれらが、どうにも僕にはひとつなぎに感じられ、それを何とか伝えられぬものかと試みた次第です。ものを書くということにおいて僕が未熟というのもあり、また単純に長さ(二万字超)もあり、読みにくいものになっているのは否めませんが、しばしお付き合いいただければ幸いです。

 

 

【1】飼い慣らされた大衆

【1−1】「有名人」という業

ベッキーのケース

ベッキーが不倫をしました。

皆さまご存知だとは思いますが、お相手はゲスの極み乙女のヴォーカル、川谷絵音。このニュースは年始から大きく報じられ、現在*1でも頻繁にメディアで取り扱われます*2。その際、テレビの街頭インタビューや、ネット上のコメントなどで、多くの人々が意見を述べるわけですが、個人的に気になっているのはこれがもうかなり言いたい放題であることです。無関係な素人のみならず、週刊誌やネットニュースの記事に載っている記者や芸能関係者ですら言いたい放題です。やはり知名度的に勝るベッキーに対してのものが大勢を占めていますが、川谷氏に関してももはや通称は「ゲス」で定着したり、いま軽く検索したら「日本の恥!」などというコメントが本人のインスタグラムについていたりなど、相当量のバッシング、いや罵詈雑言が、国民の口から発せられていました。

「謝れよ!!!!」

しかし、残念ながら、と言うべきか、ベッキーが不倫をしようが福山雅治吹石一恵が結婚しようが堀北真希山本耕史が結婚をしようが*3宮﨑議員が不倫をしようが乙武洋匡さんが不倫をしようが狩野英孝が何股をかけていようが*4、一般の皆々様の生活には一ミリも影響しないわけで、全くもって関係がないはずです。にも関わらず、「ベッキー」や「川谷」或いは「ゲス」と聞けば皆まるで自らが正義の代弁者であるかのように朗々と批判の言葉を並べます。

ベッキーたちのおしごと

何故こうも騒ぐのか。僕はここにひとつ単純な解釈をしています。ベッキーが、或いはタレント・アイドル・歌手・俳優などのいわゆる芸能人、もっと言えば曖昧ですが「有名人」という人種が、一般大衆の生活に実は「関係している」から、であると考えています。有名人達は一般大衆に対して、一定の機能・役割を担っているのです。

寺山修司の俳優論

ここで僕の好きな寺山修司の言葉を引用します。

要するに俳優っていうのは結局代わりの人間として居るわけですね。

演劇だけじゃなくて映画でもそうですけど、ヤクザ映画で高倉健とか菅原文太が大暴れして、暴力的に敵の親分かなんかを刺したり殺したりすると、そのあと観客はみんな自分がひと仕事したように肩を怒らせて、目がちょっと座って、映画館から出てくるわけだけど、自分は本当に何をしたわけでもないと。

だから、自分の中にある日常のイライラみたいなのを代わりに晴らしてくれる人間がいることによって、日常のイライラを爆発させるというエネルギーを失ってしまうと。

そういう意味で、暴力の映画ってのは日常の暴力をある意味で制御する装置として一つ、社会から認可を得て成り立っているという、そういう感じがある。

引用元動画:

僕がベッキーほか、或いは政治家の失言や賄賂やその他不祥事*5を耳にした時にいつも想起するのは、寺山のこの一連の言葉です。

「代理人」としての「有名人」

つまり、「有名人」というのは我々の「代理人」として機能しているわけです。高倉健菅原文太が我々の暴力の代理人としてスクリーンの上で活躍しているように、ベッキーはタレント*6として、VTRやその場の会話へのリアクションをすることで、我々の代理人として画面上に存在していたわけです。なにせ好感度でメシを食っているような人ですから。同様に、アイドルは我々の恋愛対象の代理人、歌手は我々の心情吐露の代弁者*7、俳優は我々の憧れるドラマティックな人生の代理人として、機能・役割を負っています*8

政治家はさらなり

この文脈において政治家という人種を考えてみましょう。政治家、言い換えれば代議士、というのは読んで字のごとく、我々の代理人として政治議論に参加する、間接民主制の担い手です。彼らに期待されているのは、即ち政治への民意の反映です。だからそういった期待に反して彼らが不倫や賄賂や横領や云々という不祥事を起こすと、国民は「裏切られた!」と考えて批判をするわけです。宮﨑議員然り。舛添都知事然り。

福山雅治が結婚しても「裏切られた!」

ベッキーが不倫しても「裏切られた!」

そういう人たちにとって、例えばベッキーは決して「関係のない人」ではないわけです。ベッキーは、我々の代理人として仕事をしており、我々の日常を支えている一人であったのです。

職業:裏切り者

しかし、そうして「裏切」ったときにも、彼らにはまだ仕事があります。それは「裏切った人間」としての仕事です。これは福山雅治らについては当てはまりません。結婚は一般通念上悪いことではない、むしろ良いこととされているため、彼らを敵視したところで単なる僻みのようになってしまうためです。が、ベッキーは、世間を裏切り非倫理的な所業を行った人間の代表としての役割を負わされます。「これだからタレントは。」「これだからバンドマンは。」「これだから政治家は。」そう言って、彼らは途端に悪役に落とされます。悪の象徴、代表として、画面上で仕事をします(その直接の姿が映し出されずとも報道番組などで扱われることでも)。そして、皮肉なことにそういった役割は、元々ある程度期待されているものだったのです。いくら好感度が高い人間でも、同時に嫌う人間も相当数おり、「実は性格が悪い」とか「裏ではこんなことをしている」なんていう情報は、不祥事が起こる前からテレビ以外のメディアでは流れていたものです。政治家はもっと「期待」されているでしょう。というよりも最早政治家においては、政治への我々の意志の反映よりもむしろ「政治家にロクな奴はいない」「政治家はバカだ」などといった言説の証明の方が(表向きがそうでないとしても、無意識的にでも)期待されていると言っても過言ではないと、僕は思います。つまり、我々の日常の不遇・不満・不条理の原因を、「政治家の悪行」というものに求めているのです。

【1−2】大衆による物語の動物的消費

正義と相対化されるための悪

しかし、彼らは真に我々の「敵」なのでしょうか。悪の権化のような存在なのでしょうか。そんなわけがありません。何故なら彼らは昨日まで我々の代弁者であったのです。我々の一部を委託し、我々を支えていた、その一人であったのです。そんな彼らが、実は秘密裏に潜伏していた邪悪な存在であったなど、そんなのは絵空事、フィクション、虚構です。彼らに都合よく我々の「敵」の役割を負わせることで、大衆はさしずめ「正義の味方」になったつもりでいることが出来るのです。

「有名人」たちの二次元性

つまり、彼らは「有名人」になったそのとき同時に「役者」としての責を負うことになります。彼らは、リアルがデフォルメされ象られた「役」を演じること、そしてそれを大衆に消費されることを余儀なくされます。我々はベッキーをデフォルメして、我々の代弁者としての「役」に当て、そしてその「役」にはまった彼女を消費し*9、しかし彼女が不倫した途端にまた全く違う形にデフォルメし、「倫理的悪」であり、『「『正義の味方』である我々」の敵』*10としての「役」に当て、そんな「役」にはまった彼女を消費しているのでしょう。それは幾分フィクショナルになった彼女の虚像ですが、大衆はそれを彼女のリアルと見なして消費することになります。

現実とフィクションの境界というフィクション

「事実は小説より奇なり」なんて言葉があります。先ほど転載した講演の寺山修司によれば、当時の事件で「恋人を殺してその肉をすき焼きにして食べようとした」というものがあり猟奇的な事件として世間を騒がせた一方で、帝国劇場で市川染五郎(現・松本幸四郎)と鳳蘭がミュージカル「スウィーニー・トッド」にて、人を殺してその肉でハンバーグを作って金儲けをするという話をやっていた、とのことです。ハンバーグの方がすき焼きよりも幾分グロテスクな感じがして、そういった意味でも「より奇」な感じがしますが、それはともかくとしても、フィクションというのは現実の延長、或いは現実において既に引かれた線上にある、と言うことはできないでしょうか。そう考えればフィクションと現実の境目というのは非常に曖昧なものです。だからこそ、フィクションは我々の委任を請け負い得るのでしょう。

フィクションの要件

とは言え、これは留意しておく必要があると思うのは、フィクションとは事実とは異なる何かを含んだ時にフィクションとなるのであって、逆に言えば、いくらフィクションは真理を含み得るとしても、同時に必ず虚偽を含んでいるということです*11。そのフィクションのその全てを肯定してしまうということは、そのうちに含まれる虚偽をも肯定してしまうことになりかねません*12。そして、ときにそのことは非常に重要な事をも覆い隠してしまいます。

ノンフィクションという危険なもの

フィクションを読むとき、人間はそれをフィクションとして区別して読みます。その内容が現実にあり得ることだったとしても、或いは、ほかでもない同じ人間の考える小説、人間の想像の範囲内である小説というものよりも事実の方が「奇」であるということを認識した上でも、ある物語がフィクションか否かということは、多くの人々は強く意識した上で読みます*13。しかし、ベッキーのような現実の人間が現実に起こしたこと、つまりノンフィクションについて検討するとき、それは現実であるために無防備にそれを受け止めてしまい、そしてベッキーが裏切り者の悪者のゲスであるという虚構を受け入れ、そこに自らの敵を委任し、正義としての自らを築き上げるわけです。

大衆は見たいものだけを見る

ヒーローやヒールの存在する世界、勧善懲悪、水戸黄門のような世界観、まぁつまりはプロレスみたいなものですが、そういった世界観はシンプルで分かりやすく、そして心地よいものです。加えて、フィクションよりも現実に起こった「ホンモノ」の方がより刺激を強く感じ、興奮できるものでしょう。だからこそ、そういった現実の単純・劇的なスキャンダルに飛びつくのだと思いますが、しかしそういった、所詮は大きくデフォルメされ虚構を多く含むものは、さながらジャンクフードのようで、それを貪る大衆は非常に動物的です。そういった虚構に、自らの日常では晴らせない想いを委託して、それで幾分か胸をすっきりさせた上で、自らの日常に戻り、一人の常識的・良識的・倫理的労働者として社会に貢献するのです。そうやって大衆は社会からはみ出さぬように、また共通の物語を共有することで平準化され、飼い慣らされているのです。

【1−3】大衆は飼い慣らされる

大衆における教育の価値

まぁ、そもそも大衆というものは飼い慣らされるものです。一部の王族・貴族・富裕層に対してではなく一般大衆に対して教育というものが開かれたのは、工場労働者を量産するためである、という論もあります。その考えに則るならば、コミュニケーション・コストを下げるためと言えばまだ聞こえはいいですが、要は産業革命などによって大量の労働者が必要になった時に際し、有象無象の人間たちをそれぞれ一つ一つの部品として機能させるために、調教をすることにしたわけです。これはなんだかとても非人道的に聞こえますが、残念ながら現代においても全く違う状況であるとは言えないと思います。

なんのための大学か

「シュウカツ」をめぐる議論でよく「大学は職業訓練校ではない!」なんて主張があって、確かに僕はそれはもっともな主張だと思います。「学問」の本分とは―なんて偉そうに定義するのは憚られますが―好奇心のままに自らの知識・見識を深めていくことにこそあるからです。また是非はともかくとして、学生諸君が大学において学習・専攻・研究したことを、直接その後の仕事に活かすということは必ずしも多いとは言えず、文系とか理系とかいう大雑把な分類において就職して、大学の勉強とあまり関係のない労働に従事することも少なくないわけですが、それは上記の主張に照らせば何も問題のないことであります。

現実の大学は、或いは、大学の現実は

しかし一方で「就活に強い!」なんて文句も大学のプロモーションとしてよく目にしますし、逆に「本当に強い大学」なんて言葉を見ても想像する「強さ」はやはり「就活への強さ」でしょう。これは「いい大学に入っていい会社に入って」というストーリーが未だ根底にあるということではないでしょうか*14。このストーリーにおける大学は学問の最高府としてではなく、(形骸化した)「教養」という、(形骸化した)「エリート」たちの共通言語体得のための、(形骸化した)「教育」を行う訓練校として在ります。そして、もう言い切ってしまいますが、一部の、学問に励む学生たちを除いた多くの学生たちにとっては、大学はそういった訓練校ないし資格学校であると言えるでしょう。

近代ニッポン物語は不滅か

が、残念ながら現代において、そんな「勉強を頑張って、いい大学に入って、いい会社に入って、結婚して家庭を持って、定年まで勤めあげて、幸せな老後を送って、家族に看取られながら死ぬ」なんていう近代日本的な物語は、もちろん遂行不可能ではありませんが、幾分幻想的、フィクショナルな性格を帯びてきています。勉強はまだしも、いい大学に入ってもいい会社に入れるかどうか分からないし、いい会社に入っても結婚できるかどうかも定年までいられるかも分からないし、定年まで勤めあげたと思ったら熟年離婚の憂き目にあったり、よしんば全て上手く行っていたとしても地震放射能やテロやで人生を狂わされてしまう、なんてことも最早あり得ないとも言えません。この辺りについては後でまた詳しく述べたいと思います。

【1−4】大衆飼育の円環

黒幕は誰か

さて、では我々は何者によって飼い慣らされているのでしょうか。メディアでしょうか?国家権力でしょうか?それとも一部の上流階級・エリート層でしょうか?

どうでしょう。メディアはいまだ自立的な性格を帯びてるとは言いがたいのではないでしょうか。メディアはおよそ大衆の求めるものを作っているだけです。国家権力にも最早似たようなところがあると思いますし、「世の中を裏で牛耳る上流階級」なんてものは、それこそ一種の陰謀論にも似たフィクションでしょう。

即ち、大衆は大衆自身によって飼い慣らされているということではないでしょうか。

大衆の支配

メディアも国家権力も、大衆からの支持によって成り立っています。見たいものだけを見ようとする大衆に、その見たいものを供給することによって体制を保っているのです。いつの間にかこの、大衆の動物的な欲求とそれに応えるシステムとのコールアンドレスポンスの繰り返しによって、大衆は大衆自身を飼い慣らし、大衆は大衆自身に飼い慣らされるようになったのです。

北朝鮮を見て安心するメデタさ

例えば北朝鮮のような国を我々が見るとき、「洗脳」や「マインドコントロール」と言っても過言でないような方法で政府が国民を飼い慣らしている、というように見えて、非常に前時代的で非人道的な恐ろしいもののように考えてしまうわけですが、しかしその姿は戦時中に天皇を崇拝していた日本人とも重ねあわせられますし、そして現代日本においても、大衆の内部完結的に、また緩さを持って、という但し書きつきではあるものの、依然として大衆は飼い慣らされていると言えるため、程度問題でしかないのではないか、と思えます。

 

【2】代替可能な大衆

【2−1】高まる労働の代替可能性

「いくらでも代わりは居るんだよ!」

また、労働の代替可能性というものも、どんどん高まっていっているように思われます。何故そう思うのかといえば、逆に代替不可能な仕事というものが減っているように思われるからです。

他者によって代替不可能であった仕事が、代替可能になってしまうという現象は、大きく分ければ二つの要因によって起こるでしょう。

開かれる専門職

一つは、その仕事が特定の人間でなくても出来るようになることです。先述の教育によって、一部の人間しか得られなかった知識や技術をより多くの人間が得られるように、或いはインターネットによって誰でも膨大な知識にアクセスできるようになれば、それは起こります。また、言語の面でも似たことが言えます。近年、機械翻訳のシステムは日進月歩で、一説には一般公開されていないだけで既に異言語間コミュニケーションがほぼ問題なく行えるレベルのシステムが開発されているとか。その真偽は定かでないにしろ、しかし近い将来において、実用レベルを満たした翻訳システムは開発されると考えるのが妥当でしょう。なんなら、人間のほうが機械に合わせ、システムに翻訳されやすい語法というものが広まるかもしれません。そうなれば、各国の、特に日本は顕著な方でしょうが、その労働市場はグローバルに広く開かれ、代替可能性・流動性は更に高まり、より安い労働力に仕事は流れていくことになるでしょう。

「機械に使われるな」という困難

そしてもう一つは、人間でないものが仕事を奪う、ということによって起こりえます。これについてはいくらでも例を挙げることが可能でしょうが、それが最も顕著な業界は生産業でしょう。人間一人一人によって作られていたものが、オートメーションによって、場合次第ではそれ以上のクオリティ・安定性を持って、圧倒的に速いスピードで大量に生産されるわけです。そして、その効率的に生産できる工場は、莫大な利益を生むことが出来るため規模をどんどんと拡大し、そこに労働者もまた投入されるわけですが、投入される労働者は職人ではありません。部品としての労働力です。

超ウマイ食堂のある工場という麻薬

こんな言い方は失礼ですが、僕は人生における一つの経験として、とある工場にアルバイトに行ったことがあります。17時〜翌5時までの夜勤。当日に電話してもおよそ働くことが出来ると言われるような、そんな職場です。基本時給は1,000円。とは言え、夜間労働の時給増なども含めて、一勤務で14,000円ほどをいただきました。理由は知りませんが月10日を超える出勤は禁止されているのですが、月の3分の1しか働かずとも単純計算で14万円の収入が得られれば生きてはいけるわけで、そう考えれば悪くはないな、と思ってしまいますが、さておき。

実写版「フラット化する世界」

工場労働というのは、まさに、代替可能な人間を労働させる場であります。勿論、その工場のベテランには、一朝一夕では出来ないような技術があったりしますが、とは言え、そもそも工場というものが、誰であっても生産活動が出来るようにデザインされたものです。そしてその業務は往々にして、機械の補助です。工場において我々労働者は、機械のペースに合わせて仕事をします。勿論元はといえば機械は我々人間に合わせてデザインされているものですが、その工場という労働の現場においては、我々は機械に働かされるのです。それでも、全てが機械化されず人間が労働力として必要とされるのは、人間がやるには簡単だが機械がやると難しい、という作業を担うためです。

【2−2】「書き時計」が見せる未来

やり過ぎ感は否めないが・・・

しかし、それについて最近話題になったある作品があります。山形は東北芸術工科大の学生、鈴木完吾がその卒業制作として作った"plock"と名付けられた、通称「書き時計」という作品です。

個人的にはすさまじい作品であると思うわけですが、彼がこんな作品を作ろうと思ったワケこそが、まさに今述べたことであります。

「人間がやったら単純なことでも、機械がやったら大変なこと」を機械にさせてみようと思ったのがきっかけです。

させてみないでください

つまり彼のような技術が発展していけば、人間の担う役割というのはどんどん削られていくわけです。まるでチャップリンの「モダン・タイムス」のように。とは言え非効率的ではないか、という意見もあるかもしれませんが、これがもっとシステマタイズされ、規模が拡大されていったなら、非効率的とは言えなくなるでしょう。

「みんな死ぬしかないじゃない!」

*15

他者によって代替不可能な仕事は技術の発達によってどんどん減る、代替可能な部品として人間が使われていく、しかしその人間の役割すらも機械に奪われていく……。そして残念ながら、人間の担うべき役割がどんどん減っていったとしても、人間が働かずとも大手を振って生きていけるという社会は未だ実現しておらず、現状から考えれば、そんな未来は訪れそうにありません。むしろ世帯内での労働者率というのは高まっているはずです。これだけ技術が進歩しているにも関わらず、です。

【2−3】例外としての職人たち、しかし…

「元々特別なオンリーワン」という困難

ではそのような中でどういう人種が、代替不可能な一人の人間としてその仕事をすることが可能なのか。その一つの生き方は、職人たちです。一つの道に生き、生半可な人間や自動的な機械では到達し得ない境地に至った人々です。物を作る人間に限りませんから、おおまかに「スペシャリスト」と呼んでもいいかもしれません。彼らは、スピードこそ機械には及ばないかもしれませんが、機械には決して実現し得ないクオリティの仕事が可能です。先述の鈴木完吾はこの「書き時計」の部品の多くを木から糸ノコギリで切り出したということですが、そんな非常に職人的な作業をわざわざ行ったというのは、単なる彼の気分や酔狂や偶然ではなく、非常に意味深いことのように僕には思えてしまいます。一種の皮肉か、自己防衛か。

職人たちの黄昏

が、そういった職人の領分もまた、どんどん狭められていると言わざるを得ません。僕が好きな分野で語るならば、音楽においてはプログラミングによって、理想的な音色や理想的なリズムなどを実現することが可能になっていますし、酒においては、いま非常に人気のある獺祭という日本酒は、酒造りにおける職人である杜氏不在で作られています。それはコンピューター制御による品質管理システムのもとに成り立っています。

素晴らしき哉、職人!

もちろん僕は、それでも職人の役割というのは未だ有効であると考えていますし、逆にこういう世の中にあって非常に尊敬すべき方々であると考えていますし、また、本当に素晴らしいものを作り出せるのはやはり職人だと考えています。しかし、あくまで事実として狭まってきている、というのは否定のしようがないと思います。とある若者が職人を志した時、その道はかつてよりも多分に険しいものになっていると言えるのではないでしょうか。裏を返せば、多くの人間にとって代替不可能な存在になることは、より困難な道になってきているということです*16

放っとけ、と。

さて、もしかするとここまで読まれた方々の中には、こういう考えもあるかもしれません。

「代替可能で何が悪い」「大衆で何が悪い」と。

確かに、「別に自分は非常にオリジナリティ溢れる独特な人間でいる必要はない」「たとえ探せば替えの利くような仕事・役割であっても、いま自分にその役割が与えられることに感謝して、それを全うするだけだ」という考え方は、非常に真っ当なものではあると思います。

しかし、僕は「飼い慣らされた大衆である」ということについて、ここに二つの問題点を指摘したいと思います。

 

【3】「飼い慣らされた大衆である」ということの問題

【3−1】大衆に支えられた虚構の裏にいる犠牲者たち

無自覚な迫害

一つは、大衆に信じられた虚構の裏にはその犠牲者が存在するということです。

虚構によって飼い慣らされる人間の一方で、そこからあぶれたり、それへの不信を抱いたり、それに敵であるとされたり、それに虐げられたりする人間もいるわけです。風評被害、なんていうのもその一種でしょう。先述の通り、フィクションというものは単純化されています。単純化ということは削ぎ落とされた部分があるわけです。その削ぎ落とされたことによって被害を被る、というよりも、その後に残ったフィクションを疑いなく信じる人々によって(無意識的にも)虐げられる人々というのも相当数居るわけです。昨今で最もわかり易い例は、アメリカ大統領候補者のトランプ氏でしょうか。

アメリカン・ジョークは笑えない

「テロリストはイスラム教徒だ」→「テロリストは国に入れてはならない」→「だからイスラム教徒は国に入れない」

という、恐ろしく安易なストーリーを展開し、そしてそれが一定以上の支持を集めている、というのは、それこそアメリカへの風刺的・喜劇的なフィクションであればどれだけいいか、と言いたくなるようなおぞましい現実です。

しかし確かにこれは非常にシンプルで分かりやすく、それ故に力を持つストーリーです。そのため、疑うことをしない大衆達はそのストーリーに付き従います。そうするとどうなるか。大勢の人間がその虚構たるストーリーに付き従いそれに準じて行動をすれば、この例で言うところのイスラム教徒は、虐げられることとなります。

「いいですか?暴力を振るって良い相手は化物共と異教徒共だけです。」

*17

言うまでもなく、イスラム教徒というのはテロ集団では全くありません。イスラム教徒のうちのごくごく一部の過激派たちが、イスラム教的正義を自称しながらテロ組織に属している、というそれだけの話です。少しでも考えてみれば分かることです。イスラム教信者は世界に約十五億人います。世界の約四分の一がイスラム教信者です。そして今後イスラム教がキリスト教を抜いて、世界最大の宗教となると予想する説もあります。そんな多数の人間がテロリストであるわけがなく、イスラム教を国教としている国も相当数あるわけで、たとえ仮に異教徒に対してしかテロを起こさないとしても、逆に異教徒に対してであれば平気でテロを起こして大量虐殺をも良しとするなどという宗教の国が現代において成り立つわけがない、なんてことは容易にわかります。つまり、「イスラム教徒は危険である」なんていう言説は明らかに馬鹿げた虚構・フィクションであるわけです。しかし大衆はそれを信じます。安易なストーリーに委託します。自らの不安と、憎悪を。

マイノリティの戦略としてのテロ

では、そういった憂き目にあっている人々、マイノリティ、或いは弱者と呼ぶべきでしょうか、彼らはどうするでしょうか。恐らく、その多くは所謂泣き寝入りでしょう。しかし一部はなにか行動に出ます。色々な行動があり得ますが、非常に皮肉なことに、その一つとして―勿論、彼らの全てがそうすると考えることはそれこそ「安易」ですが―ごく一部の人間によって実際に行われていることが、テロなのです。

即ち、テレビやネットで見る事々をデフォルメし、フィクション的に消費している平和な日常の裏には、弱者やマイノリティの苦悶があり、更にその消費こそが間接的に弱者・マイノリティの迫害につながっているということ、そしてそれは(場合によっては更なる)テロを呼んでいるのだというのが、僕の主張であります。

小学生のテロ

もっと我々日本人に卑近な例で、コンパクトなスケールで考えてみましょう。小学生のレベルに落とし込んで考えてみましょう。小学生の世界において、他人の評価に関して、最たる基準はおよそ四つです。即ち、勉強ができるか、背が高いか、脚が速いか、外見が良いかです。

そんな価値観はまさしく虚構ですが、小学生の彼らはそんな価値観で生きているわけです。そうすると、成績も振るわず、背が低く、脚も遅く、外見も良くない子供というのは、そのコミュニティの中で虐げられるリスクが高まるわけです。つまりは「いじめ」です。その中で「いじめられっ子」達にはフラストレーションが溜まっていく。その後、少年(或いは少女)はどういった行動に出るか?じっと耐えるかもしれない。ネタにして笑いとして昇華するかもしれない。世渡りスキルを身に着けてむしろいじめグループに気に入られてその一員となるかもしれない。しかし一方で一つの可能性として、彼らはそんな日常の破壊を試みるかもしれません。その一つが即ち自殺です。

小学生の、あるいは中学生、高校生の自殺は、彼らなりの一種のテロ行為です。彼らのテロは、彼ら自身の日常を(ひどく物理的に)破壊し、いじめの関係者や親族のみならず学校の関係者の日常をも破壊します。広く報道が行われ、社会にも大きなインパクトを与えることになります。少年(少女)にとって、それは最大にして最後の反抗の一つであるのです。

自殺という甘美なる虚構

念のため言っておきますが、僕はこういった自殺についてはもちろん断固として否定します。彼らにとっては最後に残された自由や抵抗手段のようであり、影響力も大きい手段でしょうが、ふつう彼らが望むのは、自分が大きな影響力を持つことなどよりも先にまず、抑圧や虐げられている苦痛からの解放であるはずです。「死こそが解放である」なんていうのは、それこそが虚構です。自殺は虚構のかたまりであり、非常にファンタジックなものです*18

このことは当然小学生に限った話ではありません。ブラック企業に就職してしまった新入社員にも当てはまるといえるでしょう。どんなに過酷な環境での労働を強いられようと、彼らには死を選ぶ前にやるべきことがあります。それは当然、会社を辞めることです。勿論、そういったブラック企業において辞めることというのは簡単には行かないでしょう。周囲からの圧力も多いでしょう。しかし「会社を辞めることは不可能」などというのは完全に虚構です。辞めることが不可能な会社など存在しません。また、そのブラック企業においても刷り込みが行われているのでしょう。ワタミで言えば「鼻血がでるまで働け」とか「24時間365日死ぬまで働け」とか。そうしない人間は人生の落伍者であるというような言い方をするのでしょう。それもまた当然に虚構です。そして、心身ともに疲弊し判断力を奪われている彼らは、自殺というまた別の虚構にすがるのでしょう。

ストーリーの渡り鳥の行く末

ストーリーは拠り所として機能しますが、それは大なり小なりフィクショナルである故に、自明ですが全ての人間が拠り所とすることは出来ません。あぶれた人間は他のストーリーを求めます。そしてその次のストーリーにすらあぶれればまた次へ。そうやってストーリーを渡り歩いて疲弊した人間の一部が「イスラム国」へたどり着かないと何故言えるでしょうか。トランプの非常にフィクショナルなストーリーを動物的に消費する大衆は、彼ら自身がテロリストを増やしているという皮肉に気づかないでしょう。

【3−2】「大衆として生きる」という戦略の有効性低下

さて、「飼い慣らされた大衆である」ということの問題点の二つ目は、その生き方・戦略はあまり得策ではなくなってきているということです。このことを説明するためには、いま日本社会、ひいては世界が非常に不安定化していることについて説明する必要があります。

【3−3】不安定化社会

独断と偏見による3パラダイム・シフト論

ここで、日本における不安定化を説明するために、象徴的な、近年起きた三つのパラダイム・シフト*19に注目してみようと思います。即ち、

  1. '95 パラダイム・シフト
  2. 9.11 パラダイム・シフト
  3. 3.11 パラダイム・シフト

です*20

先に付け加えておきますが、これらの「パラダイム・シフト」とは、あくまで我々の意識・無意識下における話であり、これ自体が社会・世界の変革とイコールではありません。しかし、間接的に社会・世界を変えていくものであるとは言えるでしょう。

'95 パラダイム・シフト

1995年には多くのことが起きました。戦後50年の節目の年であり、新世紀エヴァンゲリオンWindows95阪神淡路大震災オウム真理教、そして地下鉄サリン事件、といったキーワードで代表されることでも分かるように、今でも非常に特別視される年です。この年の読み解き方は色々とあると思いますが、当記事の文脈においてはこの年を、「神話の崩壊」として捉えたいと思います。

阪神淡路大震災においては、「安全神話」というものが崩壊しました。起こると思われていなかった関西での地震、万全と思われていた耐震策は不十分。安全に見えた都市生活というものが、突然の理不尽によって脆くも破壊されうるのだということを、我々は思い起こさせられました。

そして、オウム真理教による地下鉄サリン事件。世界的に見ても治安が良く安全な都市であると考えられていた東京における、世界初の化学兵器テロ事件です。宗教色の薄い国である日本にあって(いや、だからこそなのかも知れませんが)宗教団体が首謀であること。そして、学歴社会的な考え方が未だ強い日本にあって、その宗教団体には高学歴者が多く含まれていたこと。これらの事実がもたらした衝撃は相当なものでありました。

95年に起きたこの二つの出来事を見るだけでも、先程述べたように「勉強を頑張って、いい大学に入って、いい会社に入って、結婚して家庭を持って、定年まで勤めあげて、幸せな老後を送って、家族に看取られながら死ぬ」という極めて日本的な物語が、時に「神話」と揶揄されるように、有効性を低下させていることがよく分かると思います。勿論、未だ不可能ではありません。しかし、以前のような確実性・安定性は無いでしょう。「順風満帆のはずだったのに」というケースも最早珍しくもなく、特に昨今のこのSNS社会においては、ちょっと下手な言動をすればすぐ炎上です。「こうすれば大丈夫だ」という安定確実な方法論なんてものは最早無い。そういう時代の到来が、とは言え、それはこの年に始まったわけではありませんが、この年において決定的になった、これまでそれが見えていなかった者・見ようとしなかった者にも等しく明白なものとして目の当たりにさせられたと言えるのではないでしょうか。

9.11 パラダイム・シフト

言うまでもなく、これは2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件です。この事件はあまりに重大であり、多くの意味が含まれ、様々な変化がここから始まりました。中でも、世界の中心であると考えられていたアメリカ、それもニューヨーク、その象徴の一つであったワールドトレードセンターが、国家間の戦争でなくテロによって破壊された、という事実は非常に象徴的なものであるといえるでしょう。つまりこれは「世界の中心の崩落」でありました。それは頼るべき柱が失われたことでもあり、或いは、「世界の中心」「頼るべき柱」などというものがそもそもフィクションであった、ということに世界が気付かされた、とも言い換えられます。

この9.11は、95年の「神話の崩壊」の延長として考えることも出来ます。即ち「『アメリカ』という神話の崩壊」であると。日本のみならず世界的な規模において「アメリカ」という神話が、このとき崩壊したのだ、と。その意味で、勿論直接的な関わりは無いにしろ、95年と9.11を結びつけることで、一つの線が、時代の流れというものが見て取れると考えることも出来ます。

3.11 パラダイム・シフト

2011年3月11日、東日本大震災地震津波と、そしてそれに伴う福島第一原発事故によって、甚大な、あまりに甚大な被害がもたらされました。

ここでは敢えて、この震災そのものについては多くは触れません。あくまで、この震災を一つのパラダイム・シフトと捉えた時の、一つの考え方の話をします。その時の、あくまで個人的な、それも東京に住んでいる僕の非常に自己中心的かもしれない見解として、この震災の特異性は、最悪であるレベル7の放射能事故が伴い、そしてその地震と事故の発生した位置が首都である東京と近からず遠からずであったこと、にあると考えています。

この震災において、東京でも死傷者は120人を超えています。また、交通網の麻痺によって帰宅困難者も続出しました。人口1,300万を超える日本最大の、否、ほぼ全ての人口統計においてニューヨークをも上回る世界最大の都市である東京*21を、突然の大地震が襲ったわけです。そしてその何年も前より、東京を直撃する首都直下型地震が予測されていて、人々はそれを恐れていたのです。震災発生時、東京にいた人間ならば誰でも大きな揺れを感じたはずで、その時「ついに来たか」と考えた人も少なくないはずです。

しかし、「それ」は来ませんでした。

カタストロフはやってこない

日本の心臓部であり、世界最大の都市が破壊しつくされることはなく、無論、大小様々な影響を受けて個人差はあれども、帰宅困難であった人々もなんとか帰宅して、翌日*22からはいつもと変わらぬ日常を再開した、という人も少なくないでしょう。

もちろん連日、震災被害の中心となった東北三県の状況について、或いは原発事故について報道がなされ、特に放射能汚染についての恐れは東京にいる人間にも広がり、それまで放射能等について全く知識を持たなかった人でも、自ら情報を収集したり勉強したりといったところから動き出す人も見られました。子供のことを考えて遠くへ移住する、なんて人達もいました。デモもありました。また、放射能について多くの情報が錯綜し、東北への風評被害が広がったり、放射能を必要以上に恐れ過敏に反応する人々もいました。

しかし結局のところ、東京の人々の多くは、それまでとあまり変わらぬ日常を過ごしているのではないか、というのは果たして言いすぎでしょうか。不謹慎という批判もあるでしょう。また、日本経済にも大きな損害があったわけですから、間接的な影響を受けた人は多くいる、というか影響を受けていない人はいないかもしれません。が、震災によって直接的に日常が大きく変わった人は、語弊を恐れず言えば、一部に過ぎないのではないでしょうか(念のため言っておきますが、「一部に過ぎない」というのは、その人々を軽視していいという意味では決してありませんし、当記事において度々「マイノリティの迫害」を批判しているように、「マイノリティだ」と言うことを軽視とみなすことこそ、僕は非難されるべき感覚・考え方であると思います)。

3.11の不可視性

それは、非常に端的に言えば「放射能」が「不可視」であるから、であると思っています。

つまり、僕は、ともすれば類似したものと見られることもある、先の「95年 パラダイム・シフト」と「3.11 パラダイム・シフト」とを、はっきり区別して考えています。もちろん、熊本地震とも*23。僕は、95年には、それまで安定的で半永久的に続くと思われていた平和な日常が、突然、理不尽的に、破壊されてしまうという可能性が強く意識されたという意味づけをしています。反面、3.11においては、見た目上は半永久的に続くように見える日常と、不可視である非日常(日常の崩壊)とが混在した時代・意識へのシフトが始まった、という風に捉えています。

difficult to "see"

3.11当時、一般の人間のうち放射能についての知識を持っている人間はごくごく一部であったといえるでしょう。それから福島第一原発の事故があり、それをきっかけに知識を得たという人は少なくないはずで、程度の差こそあれ多くの人々が3.11を境目に、その知識を増やしたはずです。しかしそれでも、人類史においてはまだまだ新しい技術に類するであろう原子力、素人が付け焼き刃の知識で理解するにはやはり限界があり、世の中には玉石混交の情報が散乱しました。そして、個人的な印象でしかないかもしれませんが、現在でもその状況は解決しないままうやむやになっているように見えます。

日常と非日常のメルトダウン

目に見えず、そして病気との因果関係も直接的には不明瞭な部分が多く、統計的にしかリスクを測ることの出来ない、放射能。もしかするとそれは我々の身体を静かに蝕んでいるかもしれない、しかし時間とともに日常は回復してゆき、よく分からないままにそれらが交じり合ってきた……そんな風に僕には感じられるのです。もし我々の疾病リスクが高まっているなら、生が確率的になっているその状態は、「シュレディンガーの猫」が生きている猫と死んでいる猫の重ね合わせの状態だとするのになぞらえれば、我々の身体が段々と壊死していっているのだと例えることが出来るかもしれません。もっとも、生が確率的であるのは元々当然のことでありますが、放射能汚染という事態はそれをより直接的に意識させるものであると言えるでしょう。

壊死していく身体、非日常と交じり合う日常、それらが目に見えず不気味に進行していっている、そんな状況が今の東京なのではないかと僕には思えるのです。

寺山修司の「市街劇」

ところで、日常というテーマに関して、先述の寺山修司は興味深い取り組みを行っていました。それは、彼が率いる劇団・天井桟敷による市街劇です。市街劇とは、読んで字のごとく、市街地にて繰り広げられる演劇なわけですが、単に劇場で行われた劇を街中に持ち込んだというだけではなく、市街劇においては観客、即ち、街中の人々が、その劇に巻き込まれます。その代表的な作品である『ノック』は、東京は杉並区阿佐ヶ谷を舞台に、同時多発的に18もの演劇を連続30時間にわたって、市街地・住宅地問わず、パブリック・スペースであろうがプライベート・スペースであろうが、ところ構わず芝居が展開されるというものでした。

突然マンホールから包帯男が現れる。
その包帯男が一般の家庭を訪れてドアをノックする。
しかしその包帯男も元はといえば、「役者」に拉致され包帯でぐるぐる巻きにされた「観客」の一人であった……。

など。そして、それはまさしく寺山によるテロでした*24

「市街劇」とはなんだったのか

寺山はこの市街劇によって、何がしたかったのでしょうか。市街劇においては、舞台と客席の境界はおろか、役者と観客の境界も、日常と非日常の境界もありません。そういった二項の境界というものは実は非常に曖昧であること、というよりもむしろ、それらが我々の主観によって全く逆転したり、融解してしまうのだということ、それを人々の目の当たりにさせたのが、この市街劇ではないでしょうか。日常と非日常の境界などというものは我々が勝手に創りだしたものである。それを言うことによって彼は「日常」の変革を目指したのです。

三つのパラダイムシフトを経て

さて、「神話の崩壊」「世界の中心の崩落」「非日常と日常の混合」……。上で挙げた出来事たちは代表的なものですが、この二十年ほどで起きている事柄には、これらのパラダイムに紐づくようなことが多くあるように思えます。我々は突然理不尽に死ぬかもしれないし、頼っていた柱もある日脆くも崩れるかもしれず、死や終末への暗い羨望ももはや幻想となり、日常と非日常/通常と異常/現実と虚構/生と死の交じり合う不透明な時空を、見えないところで何かが着々と進んでいるような不気味さを感じつつ、物語不在の中で漠然と、じわじわと壊死してゆく身体を生きながらえさせていかなくてはならない……。ネガティブすぎると言われるでしょうか。それはそうかもしれません。しかし、今述べたことは、表現の問題はあれ、今に始まったことでないとても普遍的なことです。しかし、それが先程述べたような三つのパラダイムシフトによって、よりはっきりした輪郭を持って我々の目の前に姿を表した、或いは認めざるをえないような明白さで以て再認識させられた、そう言えるのではないかと思います。それ故に、今の世界が非常に不安定なものになっている、というのは少なくとも我々の認識レベルにおいては言うことが出来るものと考えています。

暗い話が続きましたが、そういった不安定な社会にも、実は一つメリットがあると僕は考えています。それは、不安定な社会は自由度が高いということです。

【3−4】不安定化/自由化社会

出会い系サイトがTV CMを打つ時代

結婚についての話を考えればイメージしやすいかもしれません。かつて結婚とは多くの人にとって、他者によってその相手を決められるという側面が強くありました。人に決められる分、そういう縁談などに従っていれば結婚が出来た、という時代でした。しかし近現代にゆくにつれて結婚というものの価値観が変わってきました。我々は自由に恋愛をし、自由に相手を選び、いや、そもそも「結婚するかどうか」をも選ぶことが出来ます。それにより、我々は結婚するかしないか、結婚出来るか出来ないか、という点において、かつてに比すれば自由でありながらも、不安定で、不確定的な時代に生きていると言えるでしょう。適齢期*25を過ぎても結婚出来ないというのが社会問題と化していて、「婚活」なる言葉が普及して久しいのは周知のことであると思います。

一億総撤退戦時代

僕の中では、この、「婚活」をする人々の姿が、例えば「シュウカツ」をする人々と重なります。つまり、社会が自由化且つ不安定化している中でも、彼らは自由を犠牲にして、仮初めの安定を求めているように見えるのです。時代に逆行していると言う事もできますが、時代に逆行すること自体が問題ではなく*26、その戦略ではワリばかり食うのではないか、というのが僕の見解です。もちろん、時代の傾向が、その時点での最適な戦略とは必ずしも限りません(シュウカツという戦略の有効性が下降傾向であっても、現時点で取りうる戦略を比較衡量した時に、シュウカツの有効性が他に劣るとも限らない。収益の低下と赤字は同義ではない。)が、傾向を認識しているのとしないのでは大きく違うし、いざというときの舵取りに関わってきます。そして、婚活と比較した時にシュウカツに対して言えるのは、婚活は自由恋愛による結婚に行き詰まりを感じた人々が取る戦略であるのに対し、シュウカツは多くの場合そうではないことが問題として挙げられるでしょう。物凄く語弊があり物凄く嫌な言い方をするので先に謝りますが、端的に言うと、社会に出る最初から負け組の戦略をとっているようなものです。

 

【終】ストーリー・アディクテッド・ピープル

末期症状のアメリカ

さて、長くなりましたが、「飼い慣らされた大衆である」ということは、以上の二点―ストーリーの裏に犠牲を生むこと、戦略として得策でなくなってきていること―によって、否定されるべきことであると僕は考えています。そして、その大衆の成れの果ての姿は、今のアメリカに見ることが出来るでしょう。この大統領選がどうなるかまだ分かりませんが、既にこの、トランプがアメリカ国民の大きな支持を集めているという現時点での事実だけでも、「大衆」という問題の深刻さが分かります。日本の大衆はアメリカのそれより幾分「マシ」といえるでしょうか、そうかもしれません、が所詮は「五十歩百歩」、「人の振り見て我が振り直」さねば「明日は我が身」ではないでしょうか。

そのため、我々はストーリーというものに対して警戒的であるべきである、というのが僕の考えです。ベッキーの騒動を見ていれば分かるように、ストーリーは個人の在り方すら変容させてしまいます。僕は特に攻殻機動隊ファンではありませんが、劇場版GHOST IN THE SHELLにてとても印象的だったのは「情報化した社会においては個人の形など簡単に変わってしまう」ということでした。とある個人についてのある情報が広く出回った時、例えそれが真実とは異なるものだとしても、多くの人間がその情報を信じたならそれは真実として認識され、場合によっては本人すらもそれを真実として認識してしまう、という旨だったように思います*27。この「情報」を「ストーリー」に置換することも可能でしょう。

ストーリーは不可視である

ストーリーもまた、目に見えないものです。

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

― コリントの信徒への手紙2 4章18節

かつてはそう信じられていました。目に見えないストーリーが、永遠につづくように思われていたのです。僕自身も、目に見えない普遍的なものは必ず存在すると信じていますし、それをある意味で神と言い換えることも可能でしょう。しかし、我々は目に見えないものにすら、いや、それらにこそ警戒と疑いとを持ち、真実か虚構かを「見分け」なければならない時代に来ています。

気を抜いていると、我々は知らず知らずのうちに何かのストーリーの上に乗せられているかもしれません。

そう、まさに、寺山の市街劇のように。

*1:と書き出したのが元々2月半ばであったわけですが、、、

*2:そして、最早この記事を公開した現在においてはベッキーはテレビの世界に「電撃復帰」しており、それに際してもメディアは大きく賑わっていました。ちなみにこれに関しても少し思うところがあるため、当記事のあとには「ベッキー試論(仮)」を書いてみようかなぁという次第です(あくまで予定)

*3:そして山本耕史が仮にストーカーだろうが

*4:いやこれは別に挙げなくていいか…

*5:なんなら日銀・黒田総裁のマイナス金利の失敗すら含めたっていい

*6:元になったtalentという言葉には才人という意味があるわけですが、つまりは芸能人というものの英訳でしょうか。俳優や歌手や芸人と違って、何かの「芸能」を持たずにバラエティ番組(そもそもこれも変な言葉ですが)などに出演する人たちを呼ぶために作られた名称なんでしょう

*7:これには異論もあるでしょうし僕も異論がありますが、要は、西野カナだのMr.Childrenだのを想定すれば分かるでしょう

*8:この点、お笑い芸人は少し特殊かも知れません。彼らはプライベート含めて笑いを要求されているので、狩野英孝の騒動も、勿論不倫ではないというのもありますが、何だか可笑しな話として受容されています

*9:そして彼女はそのデフォルメされ作られた役を演じることに徹するでしょう

*10:三重括弧なんて読みにくいですが正確を期したらどうしてもこうなってしまい。。

*11:勿論全くフィクショナルでない純然たる事実などどこに存在するのかという問いは真っ当なものだと思いますが、その次元で話しているときりがないように思われるので今回は割愛します

*12:当然ですが、逆にフィクションの全てを否定してしまうとそのうちに含まれる真理をも否定してしまうことになります

*13:だから映画などのプロモーションとして「完全実話」「実話を元にした…」などの文句が打ち出されます

*14:そもそもそんな謳い文句を掲げるようになったのは大学就職率が低下したからであって、前述のストーリーがフィクショナルになってきたからなのですが、それ故にそのストーリーを守ろうとして、そういったことを打ち出すのでしょう。

*15:アニメ「魔法少女まどか☆マギカ」(監督:新房昭之)のキャラクター、巴マミのセリフより

*16:そこで僕が提唱したいことこそ「ニワカ者」として生きることなのですが、それは本稿の趣旨からは少し外れるので割愛します

*17:漫画「HELLSING」(著:平野耕太)のキャラクター、アンデルセン神父のセリフより

*18:自殺が如何に馬鹿らしいものであるかを描いた物語としては、島田雅彦『自由死刑』を参照のこと

*19:ある時代・集団を支配する考え方が、非連続的・劇的に変化すること。社会の規範や価値観が変わること(デジタル大辞泉より)

*20:勝手に名づけています

*21:人口統計によってはその定義する範囲に違いがあり、"東京-横浜"とするものもありますが

*22:或いは週明けの月曜日

*23:熊本地震においては、本当に「物語中毒者」たちが氾濫したように僕には思われました。

*24:実際にこの作品は、住民からの苦情なども殺到して警察沙汰になり、逮捕者も出たとのこと。そのため寺山は市街劇『ノック』の続行は不可能と判断し、他の劇へ切り替えようとしてスタッフと対立した、なんて話もありますが、しかしそれでも寺山はその後も市街劇を行っていく事自体には非常に積極的であったようです

*25:というのが何を指しているのかイマイチ分かっていませんが、なんだかあんまり興味が無いので調べません…

*26:ちなみに、世の中には「時代に逆行している」というのを根拠に何かを批判する人がいますが、これについては僕は否定的です。別にそんなもの人の勝手であろうと思うからです。これには「誰しもトレンドに乗っていなければならない」というのをさも前提のように話しているフシがあり、個人的には鼻につくところです

*27:該当する台詞などを探したのですが見つからなかったので、もしかすると僕の記憶違いかもしれないのですが…