記号で生きている人

メモ書き程度ですが。

「もしかしてこの人、記号で生きてる?」という人に会うことがあります。結構会います。

というのは、ものを見たり聞いたり感じたり考えたりその他するのを、記号を使ってやっている人のことです。

いや、まぁ誰しも多かれ少なかれ記号を用いて、見たり聞いたり云々をしているとは思うのですが、なんというか個人的なイメージでは、記号というのは、見たり云々の一助としては有用なもの、でありますが、あくまで一助であって、頼り切っちゃうと本質を見逃してしまうというか、記号だけ見てる人になっちゃうなぁ、と思うのです。

例えば、僕は高校生の頃に担任の先生に「音楽もいいけど、音楽のことばっかり考えてちゃいかん」みたいなことを一度言われた記憶があるのですが、確かに僕は高校生で軽音楽部でバンドをやっていて行事の度にバンドを三個とか掛け持ちして、そして勉強もろくにしない、というか全くしない、試験勉強は当日の電車の中で、という感じだったので、なんというか典型的な高校生バンド野郎に見えるのですが、あんまり頭のなか音楽ばっかりだった、という記憶はなく、むしろ好きな女の子のことが九割、みたいな感じでありました。当時の担任の先生を責める気も毛頭ないですが、彼は僕のことを「高校生バンド野郎」という記号で以って理解していたんじゃないかと思うのです。というか言われた時にリアルタイムでそう感じたのが、何故だかはっきり記憶に残っています。

とは言え、正直僕が彼の立場だったなら、40人くらいいるクラスの生徒の内面まで把握するなんてことは到底無理だろうと思うので、その生徒の言動と、既存の記号というもので近いものを結びつけて、理解の一助とするというのは、意識的ではないにせよ何というか、常套手段であると思うのです。しかし、このケースのように、本質を見誤ることもあるということです。まぁ代わりに「好きな子のことばっかり考えてちゃいかん」と言われても困ったのですが。いや、困らなかったかな、それはそれで面白かったかな。

そういえば、ドイツに行った時に、400年以上前からあり非常に歴史ある喫茶店、カフェ・バウム*1というところでコーヒーを飲んだのですが、Wikipediaを見れば分かる通り、ゲーテだのシューマンだのリストだの、しまいにはナポレオンまで、ここでコーヒーを飲んだと伝えられているのですが、もうここまで来ると記号過剰なくらいですが、さぞや美味しいコーヒーだろうという感じで満を持して飲むと*2、まぁ別に普通というか「ガチで中の下」くらいのクオリティでした。記号で生きている人はこれを美味しいと感じるのかなぁ、とか、或いはもっと、「これが本場の正しいコーヒーなんだ」*3とか思ったりするのかなぁ、とか思うのです。

ともあれ、記号にばっか頼らず、ちゃんと目を開いて、耳かっぽじって、頭回して、要は感覚と思考をちゃんと働かせてないと、マジで記号に埋もれてなんにも見えないんじゃなかろうか、なんて余計なお世話だったり、自戒だったりで、思うのです、というはなしでした。

P.S.

あ、でも、所謂「作品」と呼ばれるもの全般は、記号盛り盛りのメタメタしいものが面白かったりしますね。まぁそれは別かなぁとも思いますが、でもやっぱり、いくら記号盛り盛りでも中身がなかったら面白くなさそうだし、見る側も面白い作品だとしても盛り盛りの記号を読み解いて「あれは、これこれこーいう意味があって」なんてしたり顔で言ってるだけの人は、本当にこの作品楽しんでるかな?という感じ、むしろ記号読み取りゲームを楽しんでるだけでは?、とも思うので、まぁそれはそれで楽しいのは認めますが本質ではなさそうなので、やっぱり記号ばっか追っててもダメそうです。

*1:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%A6%E3%83%A0

*2:というのは実はちょっと誇張していて、実はドイツの他の店でコーヒーを飲んでいたので、そんなに超絶な期待はしていなかった

*3:まぁこれに関してはその通りかもしれないわけですが、美味い不味いの基準がそれで変わったりするのは問題ありそうです