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「自分探し」のはなし

「自分探しの旅に行ってきます」とか「自分探しの旅ってwww」みたいなのって、一時期良く見た気がするのですが、そんなことについてのはなしを少ししてみたいな、と。

個人的には、両方思うところがあり。両方というのは否定と肯定の両方です。

「自分探しの旅」なんて言ったって、自分は自分のいる其処にいて、自分のいない何処かにいるわけもなく、旅に出て普段の生活空間から離れた場所へ行ったところで、自分は自分の移動に追随して当然移動するわけで*1、結局探しに行ったところで自分は自分のいるのと同じ場所にいるのは変わらないのです。そういう意味で、「自分探しの旅」なんていうのは馬鹿げています。

一方で、「自分探しの旅」は実際的に有効である、とも思うのです。経済学者の大前研一氏の言葉で、「人間が変わるには三つの方法しかない。1.時間配分を変える、2.住む場所を変える、3.つきあう人を変える」というものがあります。これを全肯定するつもりはないのですが、しかしある程度的を射ていると思っていて、この論で言えば、旅というのはこの三つの要素全てを変える行動であるわけです。以前の記事で類似することを書きましたが、僕は「自分を規定するのは自分の不可能性である」と考えています。つまりまとめると、人間を変える三方法の全てを尽くしても変えられない自分、世界中のどこへ行っても逃れられない自分、その不可能性が自分なのではないか、と思うのです。その意味で、「自分探しの旅」と言わずとも単純に「旅」というものが、自分の再発見ないし再確認として有効な手段ではないか、むしろ逆説的に、旅というものが自分の発見として有効な手段であるからこそ、自分の発見を目的とした旅を指して「自分探しの旅」という言葉が言われるようになったのではないかと。そして、その言葉の響きの妙味が揶揄されるようになった、と、そういう経緯なのではないかと思います。

人間を、に限らず全ての実在がそうでしょうが、それを作る要素は、トートロジー的に先天的な要素か後天的な要素しか無いわけです。つまり、生まれ持って生まれてきた性質か、生まれた後の環境・経験等の蓄積しか無いわけです。だから、自分について考えるとき、その二つを区別するところから始めて、記憶をたどっていきながら考えれば明らかになるわけですが、しかし、自分というものを構成するものがどこまでの範囲なのか、それを考えるためには、普段自分の周りに付随しているものを取り払って、限りなく裸の自分*2にした方が、自分と自分以外の世界のコントラストがはっきりして、やりやすいわけです。旅をしなくたって自分はそこにいるので当然自分のことは分かるわけですが、より効率的であったり有効的な手段としての旅というのは、あってもいいのかな、と思います。

ここ最近の自分の旅を振り返ってみるに、二泊三日とかの旅ではなく、そこそこ長期間の旅ばかりだなぁ、と。それは何故かといえば、個人的には旅というものが、単なる非日常の時間としてあるだけでは、勿体ない、片手落ちだ、と思うからです。旅先でどんな経験をしても、それが非日常として処理されてしまえば、自分の日常とは関係のないこと、泡沫の夢、とまでは言いませんが、しかし日常を変革せずに終わってしまうのではないか、と思うのです。勿論、誰でも変わればいいというものでもないわけですが。ともあれ、僕が旅をするときは、旅先での時間が日常として馴染んでくるまでは旅を続けたいなぁ、といつも考えています。

そういう意味で言うと、会社人という立場に立つと、そんな旅もなかなか出来ないわけで、自分というものが本当に発見・確立されていないと、到底僕は会社人になるなんて出来ないなぁ、と思っていて、というか経験上も痛感して、世の中で会社人としてやって行っている皆々様につきましては、本当に尊敬の念が尽きない次第であります。いやはや僕も、「社会」の諸先輩方のように自分らしく生きていきたいものでございます。

*1:トートロジー過ぎて最早訳がわからない感じになってますが面倒なので鍵括弧で区別するみたいなことはしません

*2:「等身大の自分」という言葉を一瞬使いそうになりましたが、あの言葉は世の中であまりに安っぽく使われすぎているので辞めました。なんならクリエイターの中でよく言われる「パンツを脱いだ自分」という言葉でもいいですね