トリコロールとかレインボーフラッグとかについて(或いはすべての行為について)

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はじめに

オブラートに包んで言うべきかとも思いましたが、そういう日和見的な態度がよくないのだと考え、なるべくはハッキリ述べようと思います。しかし、予め言っておくとこの記事は、当該行為自体の是非を問うものではなく、もう少し根本の話です。
(まぁ結果的に批判になってはしまうのでしょうが。)

本題

何の話か、Facebookプロフィール画像の話です。Facebookをやっていない方、或いはあまり見ない方はご存知ないかもしれませんが、今Facebookでは自分のプロフィール画像に、フランス国旗のトリコロールを重ねるようにクリック二つで設定できるようになっています。日本語の文言ではこうあります。「パリ市民の安全と平和を願うプロフィール写真を設定しよう。」言うまでもなく、先般パリで起きた同時多発テロに際して、Facebookにこのような機能が搭載されたのです。

約半年前にも・・・

似たようなことが以前もありました。今年の6月です。事実上、アメリカでの同性婚が認められたことになる最高裁判決が出たのに際し、プロフィール画像に同性愛の象徴であるレインボーフラッグを重ねる機能が実装されたのです。実際に一時期、Facebookのタイムラインには、虹色のプロフィール画像が目立ちました。

しかし、この解釈に関しては諸説ありました。同性婚が認められたことを祝福している、というものだけでなく、自らが同性愛者であることのカミングアウトである、という解釈もありました。本来は前者であって、後者は誤解である、という議論も見られました。

そして、今回のトリコロールに関しても非常に賛否両論あります。批判としては、偽善ではないのか、ファッションではないか、他にすることがあるのではないか、軽率だ、ISに敵視されないか、フランスの空爆への肯定の意味を含まないか、Facebookというアメリカのサービスが用意したそれを利用するということは云々、など。

繰り返すようですが、、

しかし僕はここで、それらについて議論する気はありません。それらの行為について肯定することも、否定することもしませんし、或いはそれらについて議論することそのものがナンセンスである、なんてことも言うつもりはありません。むしろこの是非についての議論というのは大いに尽くされるべきであると思います。

僕が言いたいのはこういうことです。プロフィール画像をレインボーにする、トリコロールにする、という行為、あなたがそれにどのような考え・想い・思想・信念等々を込めたとしても、それが単なる「プロフィール画像の変更」のみである限り、圧倒的に「記述不足」であり、見る人がどう解釈するかは全く分からない、ということです。

恐ろしいことに

「本当はそんなつもりじゃない!」「私はこういう意味でプロフィール画像を変えたんだ!」「ただ単に追悼の気持ちを表しただけだ!」など、どれだけあなたが、その行為の解釈の「正解」をしっかり持っていたとしても、見る人がそれを読んだり聞いたりしなければそれは知り得ませんし、ひょっとするとその「正解」を主張したところで、「いや、たとえあなたがそういうつもりでも、あなたがやったことはこういうことだよ」と逆に「正解」を説かれてしまうかもしれません。フランスの批評家であるロラン・バルトのテクスト論を引用するまでもなく(というか読んでないので引用できませんが)、あなたの行為は、あなたの意図に関係なく、あなたから離れて独り歩きして他者に解釈されるものになり、しかしその解釈・評価はあなたのもとに戻ってくるのです。

勿論、誤解の可能性を恐れては何も出来ません。批判を恐れて何もしないのも同様です。だから、誤解や批判を受けるようなことは決してするな、とは思いません。しかし、誤解や批判は受けないに越したことはない、と言うより、誤解や批判を受ける可能性が高い手法をわざわざ選択する必要は無い、というのは自明ではないでしょうか。当然、この文章も僕の意図していない誤解を受ける可能性はあるわけですが、少なくとも明らかに「記述不足」な行為というのは、僕には恐ろしくて出来ません。「記述不足」ということはそれだけ解釈の幅があるということで、それだけコントロールがきかないということになるからです。

おわりに

「誤解」という言葉を使いましたが、「誤解」も「正解」もボーダーというものが殆どなくなっているのではないでしょうか。自分の行為の意味は自分が決められる、自分が決めたことが正解なのだ、と往々にして思いがちですが、実は我々にはそんな権力はとうに失われているのかもしれません。また、「記述」という言葉を敢えて使いましたが、勿論これは文章上の問題、また、ネット上の問題に限らないわけです。生きていく上でのすべての行動に徹底するのは不可能であると思いますが、可能な限り、自分の行為の「テクスト性」というものを意識していきたいものです。