非絶望的観測

先日見た映画「マッドマックス 怒りのデスロード」には、「希望など持たないことだ」という、主人公マックスから女戦士フュリオサへの助言(?)が登場した。まやかしの希望を持ち、それが裏切られ、それを繰り返すうちに人の心は壊れ、狂ってしまう。そうならないように、最初から希望など持たない方がいい。概ねそういう意味のセリフだったと思う。

しかし、僕は反面「絶望」というものも、果たして妥当なものであろうかとも思う。と言うか、結論から述べてしまえば僕は「絶望」というのは経験、或いは想像力、或いは認識力、それらの欠如に由る誤謬であると思う。これがあまりに抽象的な議論であるのは自覚しているが、完全な絶望、などというものはおよそ存在しないだろう。とある状況を、先述の経験等の欠如によってアバウトに判断・解釈した結果、それこそまやかしの「絶望」が心に生まれるのだと思う。

鏡写しのように、「希望」というのも同じようにまやかしなのかもしれない。所詮は「希望」も「絶望」も、人間の主観的判断・解釈に基づいたものに過ぎず、客観的事実とかとは全く異なる類のものだ*1。コンクリートなものではない。

だけど、どうせどちらもそうなら、僕は希望を持ちたいと思う。まやかしだと自覚していては、それは真に希望を持つことにはならないと言うなら、希望を「演じる」と言ったっていい。結果的に下手をこいて気が狂うことになるかもしれないとしても、僕は希望を選びたい。

だってその方が楽しいに決まっているじゃないか。

*1:「客観」というものも概念に過ぎず、まやかしじゃないか、という論もあるかもしれないが、その「まやかし」はここでの議論とは少し次元が違うように思う