記述について(演劇という物語媒体【唐組『ビンローの封印』を見て】への追記として)

実は僕が、演劇という物語媒体【唐組『ビンローの封印』を見て】を書く前なのですが、『ビンローの封印』を一緒に見に行った友人が、その感想をブログに書いていました。

なんというか、同じものを見て違う感想を抱く、というのはよくあることで、勿論そういうのもあるのですが、実感というか「クオリア」なんて言いたくないんですが、そういうものは彼が書いたものを読むに割と共通しているというか、共感する部分が多く感じられました。

しかし、アウトプットがこうも異なるのか、と個人的に驚きがあり、非常に対照的で面白く思いました。

彼は小説家なのです。これは比喩でなく。そしてそのことが、観劇記という形態の中でも遺憾なく発揮されているように思え、感想を記しているものが、どことなく小説のように、フィクショナルなものに見えるように思います。表現も文学的であって、身体性が感じられます。僕が構造についての記述に終止しているのに対し、彼の文章からは臨場感や実感が伝わってきます。僕は、こういうものが書けるというのは素晴らしいことであるし、羨ましいとさえ思います。

昨日書いたことの最後の部分にも通じますが、こういう、自分と対照的なもの、というか行為、に触れると、自分が非常によく相対化されるなと思うところです。僕は、まぁこの最近改めてこのブログを書くことを再開した際、自らの感覚や知覚というものを「記述」するという目的意識であり、文学的である必要は皆無、いいものを書こうなんて一つも思うことなく「記述」に徹するべきである、と考えていました。しかし、彼の文章などを見るに、そもそも感覚の記述のために文学というものがあったのだ、という至極当然のことに改めて気付かされる次第です。つまり文学的であることを避ければ、あるいはそれができなければ、感覚の記述は自ずと限定的なものにならざるを得ない、ということだったのです。

かと言って、僕は感覚の記述を諦める、という話でもなく。感覚にしろ知覚にしろ、いずれにしろ自分について記述に努めるということは必要であると今の時代を解しています。また、彼は僕がこのブログを書いていたことがトリガーとなって、新たにブログを開設し、上記のものを書いてくれたようで、そういうことがあると純粋に嬉しいし、そういう交流は極めて望ましいものであると考えています。

誰のために書くのでもなく、ただ自らを記述すること。自己満足と言われるのが相場ですが、別に自己満足が得られる行為でもなく。このブログの所信表明とでもいうべき最初の記事の頃と今とは、多くの点で異なることがありますが、しかして見出している意味は不思議とズレていないように思え、ニワカ者の言い分は今暫く続くこととなります。

原田卓馬さん

本当はさっきまで、小出恵介騒動のことを書いていたのですが、やっぱり本当にどうでもいいと思っているので、どうにもノってこなくてピンとも来なかったので中断し、それよりも遥かに優先して書くべきこの人のことを書くことにしました。

f:id:gheetaka:20170615000212j:plain原田さんのtwitterより)

 原田卓馬さんは、ちょうど一週間前、6月7日の大塚MEETSでのライブイベント『溢れ出す』に夜窓で出演した際、共演者の一人でした。彼は三番手でした。その前の出番のユニットが終わって、僕はそのステージ上の片付けをぼんやりと見つつ、次はどんな人なのかなぁとちらりと考えながらも、主に手元のスマートフォンに視線を落としていました。

気づいたとき、彼はもう居ました。それも、思っていたよりもずっとそばにいました。

彼はステージに立たず、客席のど真ん中に、一つの白熱電球を足元に置いて、アンプはおろかマイクも使わずに、手にした一本のギターを弾き始めました。曰く、「音楽の歴史において電気というものを使うようになったのはごく最近である」と。彼は暫く語ったあと、歌い始めました。

ライブの共演者について書くなんてことはこれまでにしたことがないのですが、こうして書きたくなるようなパフォーマンスでした。

なんとなく七尾旅人を彷彿とさせますが、しかしそれとも異なる独特な声、日常的で夢想的な手触りの詞、ときに弦が悲鳴を上げそうなほどにかき鳴らされ、ときにほのかに揺れるほどのギターの音、それらによって醸される彼の音楽は、一つの電球を中心としたその小さな世界を包み込んでいました。

ああそうか、と思ったのは声の方向のことで。マイクで拾って左右のスピーカーから出される音は、当然スピーカーと観客との位置関係に基づいて聞こえるものです。そうすると歌い手と観客の関係性は間接的なものになってきます。しかし、そういったものを使わず生の地声のみで歌うとき、観客と歌い手の関係は当然に直接的なものになります。原田さんは向きを変えたり、ウロウロしたりしながら歌っていましたが、その声の方向が自分の方を向いた瞬間、生理的な反応として、その声が自分に向けられたものであるという感覚が芽生えます。歌というものにおいて、それが自分に向けられているという感覚は極めて重要で、その歌が聴き手に、その内側でプライベートに鳴っているという感覚(錯覚と言っても良い)を持たせたとき、その歌はその人に「響いた」と言えるのではないかと、そう思っています。彼の歌は、僕には確かに響いたように感じられました。

歌が、音楽が響いたとき、そこには自分と音楽との二者関係のみが存在し、その他の世界は消え、それは人にとって、一つの救いとなりうるのではないかと思っています。

原田卓馬さんの歌は、まさしく「歌」であって、その始原的な何かを感じられるもので、多くの示唆を含んでいるような、それでいてただ身を委ねれば良いような、そんな、ただその時間と空間にしか存在しない、たゆたう煙のような存在でした。

僕らのバンドも含めて終演後、原田さんと少し言葉を交わしました。というか、原田さんからはとめどなく言葉が流れ出し、とても興味深いお話だなと思いつつ、情報量が多すぎて正直あまり覚えていません。。音に機械を通すことによる損失のはなし、生楽器のはなし、デジタルのチャンネル数のはなし、祭りのはなし、などなど。もっと話したかった、話せばよかった、なんて思ったり思っていたりしますが、コミュニケーションとはなかなか上手くいかないものです。

僕は彼のような人を見ると、どうにも自分はあらゆる意味でプレイヤー・パフォーマーとは異なる存在に思え、かと言ってこうやって文を連ねてみても、誰かに何かが届くものか判然としないのですが、それでも人間の歴史は道具の歴史である以上、自分も人間として手の中にある「道具」でただ「すること」をしよう、と原点に立ち返らされる心持ちです。

坂元裕二『カルテット』

別冊カルテット ドラマ「カルテット」公式メモリアルBOOK 【特別付録】カルテット オリジナルカレンダー (角川SSCムック)

普段テレビドラマを見ない僕でも、まぁもう有名というか超売れっ子作家なので今更名前を上げるのもという感じですが、坂元裕二古沢良太の作品だけはチェックしています。今年1〜3月に放送していたドラマ『カルテット』も、久しぶりに毎週見ていたドラマでした。

とは言え、まだ坂元裕二作品全てをチェックできているわけではないのですが、個人的には彼の作品の中でも屈指のクオリティ、非常に力を持った作品であったと思いました。はっきり言って、同時期のほかのドラマ*1とはちょっと次元が違う、頭三つ分くらい抜けてるんじゃないかな、という印象でした。脚本は言わずもがな、出演の俳優陣は素晴らしい演技を見せ、照明か演出かカメラワークなのか映像も凝っていたように感じ、椎名林檎が作曲・作曲・斎藤ネコと共同で編曲し、メインキャスト四人が歌う主題歌も作品と非常によく合っていました。

強いて言えば、唯一どうかなと思ったのは劇伴のfox capture planで、物凄く鼻についたというほどではないのですが、少し軽薄にすぎる、言ってしまえば「チャラい」感じがしました。この系統の劇伴であれば、ドラマ『あしたの、喜多善男*2での小曽根真の劇伴が完全に上位互換だったと思います。というか現状、映画も含めてこのドラマが唯一の小曽根劇伴なんですね。ちょっと意外です。

さて、今回この3月に終わったドラマに関して書こうと思ったのにはちょっとしたキッカケがあり、スタジオジブリ発行の無料配布雑誌『熱風』*3の6月号の特集が、坂元裕二のロングインタビューだったのです。それで、作品を見て僕なりに感じたことの確認ができた感があったので、それを書いておく次第です。

ちなみに、ネタバレというわけではないのですが、本作をまだ見ていない方は、この先の文章は是非作品を見てからお読みいただきたいところです。

『カルテット』とはどういうドラマだったのか

そもそも本作は「大人のラブストーリー×ヒューマンサスペンス」を謳っています。基本的にはどのようなジャンルであっても、恋愛の要素はドラマに組み込むことはできますし、例外がないわけではないのですが、実際に多くの作品においてそれは組み込まれています。では、本作は「サスペンス」なのか。確かに、主にマキ(松たか子)を中心として、常になんらかの謎であったり影のようなものがある、伏線が常に引っ張ってあるような、そんな構造にはなっていました。しかし一方で、物語の中でそれらが明かされていくわけですが、どれに関しても、ああそういうことだったのか!という謎が解決するカタルシスのようなものはあまり提示されません。

これに関しては、小説家の我孫子武丸が、作品自体は好きであると認めつつも、何かノレないとか、肩すかしではあるとか、多少否定的な意見を書いていて、まぁ確かにミステリ的な読解をするとそうなるだろうなと思います。また一方で、本作の主演四人に準ずるほど大きな存在感を放っていた有朱役・吉岡里帆はイベントで「これはサスペンスなので。サスペンスの定義を家に帰ってから調べてみてください!」と発言しています。

結論を言ってしまえば、僕は、そういう既存の見方を拒否しているのが、この『カルテット』というドラマであったと思っています。そして恐らくは、恣意的にミスリードを誘ってもいたように思います。これは「サスペンス」或いは「ミステリ」に限った話ではなく、ラブストーリーも、音楽も、家族愛も、どうにも作品の大枠や主軸というほどでなく、一要素としてしか存在していません。なんとも名状しがたく曖昧であったり、主題歌『おとなの掟』の詞にもある「グレー」であることこそが、本作であったように思うのです。

そして、今回の『熱風』のインタビューで答え合わせをしてもらった心持ちなのですが、この中でまさに坂元裕二は「『カルテット』にはジャンルがない」と明言しています。というのは「ひとりひとりが最高で、最高が四人揃う」「ただただ、この四人の芝居だけをずっと見ていたい」という思いが先行していたためとのことでした。そして、こうもジャンルの枠組みを「守れなかった」のは初めてだったようです。そのことが、坂元裕二作品の中でも本作を特異なものにしているのかもしれません。

夢について

とは言え、本作の物語上の題材はやはり「夢」であったり、「やりたいこと」であるのでしょう。アリとキリギリスというモチーフも本作中に出てきますし、先述の吉岡里帆演ずる来杉有朱(キスギアリス)と言う名も、そこからつけられたものと思われます*4。インタビュー中にも、というかサブタイトルが「『嫌なことをして何かを諦めて生きるよりは孤独死上等』と言い切る、彼らの姿を肯定したい」となっていますし、そう「思って描きました」とあります。と言いつつそんな「夢」についても、カタルシスはおろか回答ないし明確なメッセージも提示しておらず、「夢を諦めるな」というようなシンプルなメッセージを避けたという旨の発言もありました。やはり本作の描いているのは、そういうなんとも言いようのないところなのでしょう。

コミュニケーションについて

個人的には、本作に限らず、坂元裕二が描いているのはコミュニケーションについてなのだと考えています。どの作品をとっても、会話劇としての魅力が非常に大きく、またディスコミュニケーションやミスコミュニケーションの描き方、それらの物語への組み込み方が非常に上手いと感じますし、勿論本作も例外ではありません。

現実世界から、実在で具体的なモチーフを持ち込んだり、リアルな間・空気感を書いたり*5、登場人物になんとなくイナタかったりヘンテコな口癖をつけたりなど、坂元裕二節とでもいうべきものがあります。

しかし、なんというか、そういうリアルや具体を離れたところ、普遍というと大仰な、それこそなんとも言えないような、なんだかよく分からないものが含まれていることが、坂元裕二作品が多くの人を引きつける理由であるとも感じます。

坂元:あくまで共感は避けたいと思っています。共感が理由で感動することがあるとしたら、僕の描き方が失敗しているからだと思います。

個人的にインタビュー中で特に面白いと思ったところの一つがこれでした。ちなみにこの直前には、インタビュアーが「なんだかんだ坂元さんは共感側に立っていて、過去作のこのキャラのこういう描写が共感に至っている」という旨のことを言っているのに、真っ向からこの強い表現で否定しています。こんな脚本家、というか物書きも珍しいのではないでしょうか。

僕としても、世の中の多くの作品たちに対して、或いは社会全般に対しても、やたらと共感を求める、或いは共感を狙っているところが鼻につき、違和感や嫌悪感を覚えます。そこには、全体主義的な思想・感覚が見え隠れするように思えるのです。勿論、共感自体が悪いわけではないのですが、安易に求め、得られてしまうそれらは、果たして本当の意味で共感と言えるのか、というのは甚だ疑問ですし「そもそも共感なんていうものは幻想ではないのか」という懐疑なしに「共感」という語を用いるのは如何なものかとも思います。

彼が描きたいのは、そういう卑近な共感ではなく、もっと人間の根本にあるような、一言では言えない、もっと言えば単純な文字にはできないような、そんなようなもので、それ故に彼は小説家ではなく脚本家として書いていて、単に自分が描く側としてだけでなく役者にそれを見せて欲しい、というような心持ちで仕事をしているように思えます。そういう意味で『カルテット』は、彼の一つの理想の実現なのかもしれません。

そんなことを、インタビューと、作品自体から受け取った次第であります。そしてそれ故に、僕は坂元氏に「共感のようなもの」を抱いているのかもしれません。

*1:ま、見てないんですけどね……あ、でも『山田孝之のカンヌ映画祭』はまだ見てないけど見た方が良いかもですね

*2:島田雅彦『自由死刑』を原作とする、小日向文世 53歳にして初の連続ドラマ主演作。あと、まだあまり売れていない頃の吉高由里子が主要キャストで出ていて、僕の中の吉高由里子イメージは本作のそれです。そういえばこれにも松田龍平が出ていたのでした

*3:僕は本号で初めて読んだのですが、この雑誌も、なんというか「大概」な雑誌で、なにしろ読者のターゲットが宮﨑駿です。これについても改めて書く機会を設けたいところです

*4:本当に、考えれば考えるほど、有朱というキャラクターが非常によく練られたもののように感じます。それこそ、主要四人については芝居に委ねたかったからこそ、有朱については逆に構造的に作り込まれているのかもしれません

*5:本作、或いは坂元裕二作品ではなかったのですが、とある作品でこういう空気感が、監督や演出の仕事による、というよりも、脚本の筆力によって成されている、という印象を受けたことがあり、それが僕がドラマや映画に関して、脚本に最も注目するようになったキッカケです