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春画展のはなし

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12月23日、祝日・天皇誕生日となりました。同時に、今日は永青文庫で開催されている春画展の最終日です。その二つを並べるのは不謹慎だ、という声が上がるかもしれませんが、大丈夫です。春画展に行けば分かりますが、展示されている春画の歴史年表は平安時代恒貞親王*1への献上から始まっています。それはさておき、二ヶ月ほど前に見に行った春画展について感想を書いていなかったことを思い出したので、書いてみようと思います。

とは言ったものの、これ長らく書いていなかったのは、いざ書こうとすると書かなければならないことがたくさん出てきてとても大変になってしまうからでありましたので、前編・後編と分けさせていただきたいと思います。ということで、焦点を絞ります。

なお、本稿は男性からの視点で書かれています。とは言え、そうマッチョな論を展開しているわけではないと思いますが、念のため。

女性器の扱いについて

春画展において、最も大きな発見だったのが、これです。多くの春画において、女性器が存在感大きく描かれています。反面、乳房があまり描かれず、衣によって隠されていたりします。ここは現代との大きな差異です。しかし、この点についてはいくつか見方があると思います。ここでは大きく二つの観点に分けて考えてみたいと思います。

「エロ」の対象・中心

現代において、「エロ」或いは猥談ないし下ネタ、でなくとも性的な話題全般において、乳房というのはしばしばメインテーマとなるわけですが、春画においてはそうではないということです。そして春画の歴史というものはなかなか長いものなので、春画が当時の文化のすべての代表だというのは流石に暴論であるのは承知していながらも、しかし、乳房に対する我々の注目というのは、存外歴史の浅いものではないかという推論は成り立ちます。

物凄く歴史を遡ると、土偶においては乳房というものがフィーチャーされていて、それは女性性の象徴でありながら、母なるものの象徴として神聖視の対象でした。しかし、それは情欲の対象とは全く別のものとして描かれており、やはり現代のような受容のされ方ではなさそうです。

そもそも乳房は子供を育てるためのものであって、母性や生命の象徴として捉えるならまだしも、「エロ」の対象として受容されているというのも、考えてみれば少し妙な話ですが、「エロス」という語の意味、あるいは「性」という漢字を見れば分かるように、これらは非常に近しい位置にはいるのですが、しかしそのスイッチがどこで切り替わったのか、というのも興味深い話です。逆に西洋絵画においては、乳房は多く描かれていますが、女性器はほとんど描かれません。そのため、もしかすると近代における日本の欧米化と関係しているのかもしれませんが、この辺はちゃんと勉強していないとなんとも言えないところであります。そもそも日本の着物というのは女性の乳房を押しつぶして目立たないものにするように着ますし、「日本におけるおっぱい文化史」というのはなかなか興味深いテーマであります。

……なんて言ってたら、着物がそういう着付けになったのは、五代将軍綱吉の側近・柳沢吉保のせいである、それは彼が男の欲情を刺激しないためにとしたことだ、というテキストも見つけましたが、ちょっとソースも明らかでないので、ここでは論じないこととします。

では、もう一つの観点です。

ポップな女性器

乳房の問題よりもむしろ興味深かったのはこちらです。春画展のある作品において、女性器が、性行為の一場面の中で描かれるのではなく、それ自体を擬人化して、一種の遊び・パロディ・ギャグとして描かれている、というものです。ちなみにこの作品においては男性器もそのように描かれているのですが、現代においては、男性器をそういった風に冗談めかして描くことはあっても(「クレヨンしんちゃん」が最もわかり易い例ではないでしょうか)、女性器に関してはそれはあまりありません。

先ほど、「西洋絵画においては(中略)女性器はほとんど描かれません」と書きましたが、西洋のアートにおいては、フェミニズムの台頭に伴って、そういった作品は多く作られたようです。しかし、そもそもフェミニズムの台頭は「最近」の話ですし、アートと大衆の同期性にはかなり疑問も残ります。フェミニズムは近年ますます盛り上がりを見せていると思いますが、女性器がギャグとして描かれることは、まだあまり一般的ではないでしょう。ポップな表現には、全く成り得ていないのです。

しかし、つい最近、それに関して注目されたある人物の動きがありました。

ろくでなし子さんです。

ろくでなし子さんについて

ろくでなし子さんについて簡単に説明すると、彼女が世間的に大きく注目を集めたのは去年です。自身の女性器をスキャンして3Dプリンター用データにしてダウンロードさせた、としてわいせつ物頒布罪の疑いで逮捕されたのです。そしてその事件はTV含めた多くのメディアによって大きく報じられました。「自称芸術家」という肩書とともに。*2

彼女はそれまでにも、女性器をモチーフとした作品を作っており、アメリカのアートフェスに正式出展したりしているわけですが、彼女の主張というのははっきりしていて、女性器の権利獲得です。繰り返しになりますが、アートの分野においてはフェミニズム以降女性器をモチーフとした作品は多数発表されているわけですが、それは大衆に馴染んだポップなものになっていないのです。ろくでなし子さんの作品はそういう意味において、全く新しいものではないわけですが、彼女はあくまでそれらをバカらしいもの、ふざけたもの、一種のギャグとして発しており、非常にポップなものとして打ち出しています。それは、先に述べた春画展の作品と重なるところがあります。

ろくでなし子さんの不運

だからこそ、彼女は不運であったと思います。今回の春画展は、世間的に大きく注目を集め、大盛況でありました。足を運んだ人の多くは、やはり今回述べたような乳房と女性器の問題について気づくでしょう。現代に生きる我々の乳房と女性器の受容の仕方というのは、あくまで限定的なものであって、普遍的・必然的なものではないということに、なんとなくでも気付かされるのではないでしょうか。

そういったコンテクストがある程度共有された中であれば、ろくでなし子さんの事件が大きく報道された時にも、人々の印象は大きく変わったように思います。もちろん、春画展を見に行った人間というのも、日本全体のごく僅かな割合ではあろうと思いますが、しかし、春画展前と春画展後では、やはりろくでなし子さんの作品の置かれる文脈は変わるのではないか、「女性器の権利獲得」というのが「女性器の復権」であるということも、理解されやすくなるのではないか、と思います。

共通した論点

春画展とろくでなし子さんの事件。両者には女性器にフォーカスしないでも、もっと大きな意味で共通した議論がありました。即ち「猥褻物か、アートないし芸術か」という点です。

個人的には、僕はこの問いは非常に馬鹿らしいものだと思っていて、まず、猥褻物とアートないし芸術は二律背反では全くないですし、猥褻物ではないからといってアートないし芸術になるということも、アートないし芸術ではないから猥褻物になるということも全くないわけです。

僕の意見としては、ここまで両者について比較的肯定的に論じていながらなんですが、はっきり言ってしまって、春画もろくでなし子さんの作品も猥褻物であろうと思います。何を以って猥褻物とするか、という法律上の話は難しいので分かりませんが、とは言えそれらの猥褻性を否定するのは、逆に無理があるように思います。しかし、だからといって両者を否定する気はさらさらなく、春画については(それに芸術性が含まれていることは否定しないながらも)文化史的な資料・記録として非常に価値があると思いますし、ろくでなし子さんの作品についてはポップアートとしてとても価値があると思います。逆に言うと、主としては、ろくでなし子さんは元より春画についても、それらを芸術として見ることには、僕は抵抗を持っているということです。

さて、そうなると、「アート」や「芸術」とはなんなのか、という問いに当然行き着きます……が、その話はまた次の記事で書きたいと思います。

© 2015 EISEI-BUNKO MUSEUM

*1:だったはず

*2:最近目につくと感じていますが、犯罪報道の際に、肩書として「自称○○」とするのには、非常に反感を持っています。これは、その人の職業について、勤め先への確認が取れていない、などすぐに確証を持って断定することが出来ない際に使われるわけですが、それで言うとフリーランスの人間は総じて「自称」になってしまうわけで、そして「自称」とつくだけで胡散臭さ百倍で「こういう怪しい奴が犯罪とか犯すんだな」と多くの人が思うわけで、完全にメディアによる悪しき印象操作だと思います

人間における「自然」のはなし

人間が用いる「自然」という言葉は往々にして不自然なんではないか、という話です。

先日見たアニメ「すべてがFになる」に登場したセリフ*1で「自然を見て美しいなと思うこと自体が、不自然なんだよね。汚れた生活をしてる証拠だ。」というのがあり、成程と思いましたが、まさに自然というものは我々人間以前からあったものなわけで、元々自然しか無かったわけです。それが普通です。だから、それに対しての「美しい」という言葉は、逆に人工物や「人間的なもの」にまみれた生活をしていているからこそ、それらとの対比によって出てきたものであり、つまり「不自然」に生み出された感性なわけです。

というのを、ノンオイル中華ごまドレッシングをサラダにかけて「やっぱり物足りないなぁ」とごま油を追加でかけて食べている最中にふと思ったのですが、似たような論理で「ノンオイル」というのも不健康な感じがします。そもそも油脂分が含まれるのが普通なものからわざわざ人工的に油脂分を抜いているわけです。油脂もまた必要な栄養の一つのはずですが、油脂を過剰に摂取してしまいがちな現代的な食生活を送っている人たちのために、抜けるところは抜こうという発想で「ノンオイル」にしているということだと思います。その他「カロリーオフ」「低コレステロール」「糖質オフ」「プリン体ゼロ」エトセトラエトセトラ。だから「健康ブーム」なんていう言葉については、僕はとてつもなく胡散臭さを感じてしまい、その中に含まれること全般に、裏返しの不健康さを感じて仕方ありません。

食事を自分で作ってみると、普通のことを普通にやるだけで美味しいものが当たり前のようにできたりしますが、しかし逆にそれを「美味しい」と感じるのも、もしかすると、普通のことを普通にやっていないヘンなものを普段食べてしまっているからなのかもしれません。

僕の住んでいる東京という街は、多分世界的にも不自然ランキングでかなり上位に来そうな街ですが、そんな街に住んでいるからこその意味もあるとは思いますが、なるべく「普通」な生活を送りたいものです。

*1:森博嗣による原作にもある

LINEのはなし

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「り」「あ」

今ちょうどテレビに出てたのでLINEのはなしですが、それによると、今の十代の若者は「了解」を「り」、「ありがとう」を「あ」で済ませる、らしいです。

若者がなんでもかんでも略語にしてしまうのは今に始まったことではありませんが、ここまで省略されてしまうというのも凄いな、と。

急に回想するよ

平成元年生まれである僕は、小学生の頃はPHSを使い、中学生になって二つ折りの携帯電話を使い始め、次第に通話よりもEメールを使うようになり(ちなみにPCで同士でのメールのやり取りや、チャットでのやりとりもしていた記憶がありますが、この経験はどちらかと言えばマイノリティか)、大学生の半ばからスマートフォンSNSも普及してきつつも、しかし依然として連絡手段はEメールだったのが、つい三年ほど前からLINEという所謂インスタントメッセンジャーが個々人の連絡のメインツールとして爆発的に広まり、今に至ります。なんだかLINEでのやりとりにあまりに慣れてしまい、ついつい忘れてしまいそうになりますが、こうして考えると我々(と言ってしまいますが)は、これまでかなり様々な形態でのコミュニケーションというものを経験してきたのだと気付かされます。

なにが変わってきたのか?

さて、EメールもLINEも携帯電話を用いた文字でのやり取りという点は変わらず、また、若者がなんでもかんでも省略するのは今に始まったことではない(少なくとも小学生の頃、つまり15〜20年前には既にそれに対する批判を聞いた記憶があります)。しかし、ここまで言葉が省略されるようになったのは恐らく、まさにLINEのその「インスタント性」に理由があると思います。つまりその、コミュニケーションスピードの高速化に対応して発生してきたものであろう、と。

以前、家入一真氏が「LINEスタンプは感情表現のコミュニケーションコストを下げた」という旨の発言をしていたのを見て「成程」と思い、個人的に印象的でした。つまり、感情を表現するために幾つもの言葉を連ねるよりも、適当なスタンプを一つ送る方が当然手軽で、時間もかからないわけです。LINEというのはそういったスタンプの利便性と、メッセージの届くスピード、また、読んだか読んでないかの可視化も相まって、非常に低いコストでのコミュニケーションを可能にしたと言えます。

LINE>>>>越えられない壁>>>>メール…とかではない……が、

誤解を招かないように述べておきますが、LINEと、それ以前のコミュニケーション手段を、分けて考えるべきではないと思います。これは段階的な変化であると考えるべきでしょう。これから更にコミュニケーションコストを下げる手段というものが登場する可能性もあるでしょう。そして、もしそういったものが登場すれば、我々はすぐにそれに飛びつき、LINEというコミュニケーション手段もまた、過去のものとして忘れ去られるようになるかもしれません。何故なら、基本的にコストなんていうものは低い方が良いに決まっているからです。

 

しかし、どうでしょう。

「り」→「了解」とわかっていれば、「り」で十分意思疎通は可能でしょう。

「あ」→「ありがとう」とわかっていれば、「あ」で十分意思疎通は可能でしょう。

しかし本当に「ありがとう」という気持ちが伝わるか?いやいや、「あ」と打つ手間と「ありがとう」という五文字を打つ手間の差に、そんなに気持ちの現われが違うものか、「あ」と打つと予測変換で「ありがとう」が出たりもしますし、もっと言えば辞書登録(なんてもうあんまりしないかもしれませんが)すればいくらでも感謝の言葉を2,3タップで紡ぐことが可能です。まぁそれこそ「あ」では「記述不足」であるとはいえ、上記のような価値観が共通コンテクストとして存在すれば、あまり問題にはならないでしょう。「あ」と「ありがとう」にはほぼ差なんて無くなってくるでしょう。

が、

だからこそ、同時に恐ろしくなってきます。

「あ」と「ありがとう」のフラット化は、「あ」→「ありがとう」だけでなく、「ありがとう」→「あ」ということにもなりはしないか。つまり、我々の中の「ありがとう」という感情の方が、むしろ「あ」程度のものになってしまいはしないか。「ありがとう」という感情自体が、非常に軽薄なものになってきてしまうのではなかろうか、と。

スタンプも同様でしょう。本来、我々の実際の感情とスタンプとの間には、ギャップがあったはずです。我々の感情と完全にピタリと一致しているスタンプなどあるわけもありません。スタンプにした途端失われたものがあるはずです。しかし、我々は手元にある選択肢の中から感情の近似値たるスタンプを選ばざるを得ません。そして、先程と同様に「我々の感情のスタンプ化」が起きてはしまわないかと。

これは単なる杞憂でしょうか、それとも、もう既に起きていることなのでしょうか。

僕は、後者であろうと思います。

「インスタント」

だから、僕はLINEのようなインスタントメッセンジャーの「インスタント性」を忘れてはならないと思うのです。あくまでこのコミュニケーションは「インスタント」なものなのだということに自覚的であるべきだと思うのです。それは、instantにメッセージを届けるものでありながら、しかし同時に「インスタント」なメッセージを届けるものでもあるということだと思います。それを多用し依存してしまうことは、元来あった本質を見失ってしまうことになるのではないかと思います。それはちょうど、インスタントコーヒーばかり飲んでしまって、本来の美味しいコーヒーの味を忘れてしまうように。