人間における「自然」のはなし

人間が用いる「自然」という言葉は往々にして不自然なんではないか、という話です。

先日見たアニメ「すべてがFになる」に登場したセリフ*1で「自然を見て美しいなと思うこと自体が、不自然なんだよね。汚れた生活をしてる証拠だ。」というのがあり、成程と思いましたが、まさに自然というものは我々人間以前からあったものなわけで、元々自然しか無かったわけです。それが普通です。だから、それに対しての「美しい」という言葉は、逆に人工物や「人間的なもの」にまみれた生活をしていているからこそ、それらとの対比によって出てきたものであり、つまり「不自然」に生み出された感性なわけです。

というのを、ノンオイル中華ごまドレッシングをサラダにかけて「やっぱり物足りないなぁ」とごま油を追加でかけて食べている最中にふと思ったのですが、似たような論理で「ノンオイル」というのも不健康な感じがします。そもそも油脂分が含まれるのが普通なものからわざわざ人工的に油脂分を抜いているわけです。油脂もまた必要な栄養の一つのはずですが、油脂を過剰に摂取してしまいがちな現代的な食生活を送っている人たちのために、抜けるところは抜こうという発想で「ノンオイル」にしているということだと思います。その他「カロリーオフ」「低コレステロール」「糖質オフ」「プリン体ゼロ」エトセトラエトセトラ。だから「健康ブーム」なんていう言葉については、僕はとてつもなく胡散臭さを感じてしまい、その中に含まれること全般に、裏返しの不健康さを感じて仕方ありません。

食事を自分で作ってみると、普通のことを普通にやるだけで美味しいものが当たり前のようにできたりしますが、しかし逆にそれを「美味しい」と感じるのも、もしかすると、普通のことを普通にやっていないヘンなものを普段食べてしまっているからなのかもしれません。

僕の住んでいる東京という街は、多分世界的にも不自然ランキングでかなり上位に来そうな街ですが、そんな街に住んでいるからこその意味もあるとは思いますが、なるべく「普通」な生活を送りたいものです。

*1:森博嗣による原作にもある

LINEのはなし

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「り」「あ」

今ちょうどテレビに出てたのでLINEのはなしですが、それによると、今の十代の若者は「了解」を「り」、「ありがとう」を「あ」で済ませる、らしいです。

若者がなんでもかんでも略語にしてしまうのは今に始まったことではありませんが、ここまで省略されてしまうというのも凄いな、と。

急に回想するよ

平成元年生まれである僕は、小学生の頃はPHSを使い、中学生になって二つ折りの携帯電話を使い始め、次第に通話よりもEメールを使うようになり(ちなみにPCで同士でのメールのやり取りや、チャットでのやりとりもしていた記憶がありますが、この経験はどちらかと言えばマイノリティか)、大学生の半ばからスマートフォンSNSも普及してきつつも、しかし依然として連絡手段はEメールだったのが、つい三年ほど前からLINEという所謂インスタントメッセンジャーが個々人の連絡のメインツールとして爆発的に広まり、今に至ります。なんだかLINEでのやりとりにあまりに慣れてしまい、ついつい忘れてしまいそうになりますが、こうして考えると我々(と言ってしまいますが)は、これまでかなり様々な形態でのコミュニケーションというものを経験してきたのだと気付かされます。

なにが変わってきたのか?

さて、EメールもLINEも携帯電話を用いた文字でのやり取りという点は変わらず、また、若者がなんでもかんでも省略するのは今に始まったことではない(少なくとも小学生の頃、つまり15〜20年前には既にそれに対する批判を聞いた記憶があります)。しかし、ここまで言葉が省略されるようになったのは恐らく、まさにLINEのその「インスタント性」に理由があると思います。つまりその、コミュニケーションスピードの高速化に対応して発生してきたものであろう、と。

以前、家入一真氏が「LINEスタンプは感情表現のコミュニケーションコストを下げた」という旨の発言をしていたのを見て「成程」と思い、個人的に印象的でした。つまり、感情を表現するために幾つもの言葉を連ねるよりも、適当なスタンプを一つ送る方が当然手軽で、時間もかからないわけです。LINEというのはそういったスタンプの利便性と、メッセージの届くスピード、また、読んだか読んでないかの可視化も相まって、非常に低いコストでのコミュニケーションを可能にしたと言えます。

LINE>>>>越えられない壁>>>>メール…とかではない……が、

誤解を招かないように述べておきますが、LINEと、それ以前のコミュニケーション手段を、分けて考えるべきではないと思います。これは段階的な変化であると考えるべきでしょう。これから更にコミュニケーションコストを下げる手段というものが登場する可能性もあるでしょう。そして、もしそういったものが登場すれば、我々はすぐにそれに飛びつき、LINEというコミュニケーション手段もまた、過去のものとして忘れ去られるようになるかもしれません。何故なら、基本的にコストなんていうものは低い方が良いに決まっているからです。

 

しかし、どうでしょう。

「り」→「了解」とわかっていれば、「り」で十分意思疎通は可能でしょう。

「あ」→「ありがとう」とわかっていれば、「あ」で十分意思疎通は可能でしょう。

しかし本当に「ありがとう」という気持ちが伝わるか?いやいや、「あ」と打つ手間と「ありがとう」という五文字を打つ手間の差に、そんなに気持ちの現われが違うものか、「あ」と打つと予測変換で「ありがとう」が出たりもしますし、もっと言えば辞書登録(なんてもうあんまりしないかもしれませんが)すればいくらでも感謝の言葉を2,3タップで紡ぐことが可能です。まぁそれこそ「あ」では「記述不足」であるとはいえ、上記のような価値観が共通コンテクストとして存在すれば、あまり問題にはならないでしょう。「あ」と「ありがとう」にはほぼ差なんて無くなってくるでしょう。

が、

だからこそ、同時に恐ろしくなってきます。

「あ」と「ありがとう」のフラット化は、「あ」→「ありがとう」だけでなく、「ありがとう」→「あ」ということにもなりはしないか。つまり、我々の中の「ありがとう」という感情の方が、むしろ「あ」程度のものになってしまいはしないか。「ありがとう」という感情自体が、非常に軽薄なものになってきてしまうのではなかろうか、と。

スタンプも同様でしょう。本来、我々の実際の感情とスタンプとの間には、ギャップがあったはずです。我々の感情と完全にピタリと一致しているスタンプなどあるわけもありません。スタンプにした途端失われたものがあるはずです。しかし、我々は手元にある選択肢の中から感情の近似値たるスタンプを選ばざるを得ません。そして、先程と同様に「我々の感情のスタンプ化」が起きてはしまわないかと。

これは単なる杞憂でしょうか、それとも、もう既に起きていることなのでしょうか。

僕は、後者であろうと思います。

「インスタント」

だから、僕はLINEのようなインスタントメッセンジャーの「インスタント性」を忘れてはならないと思うのです。あくまでこのコミュニケーションは「インスタント」なものなのだということに自覚的であるべきだと思うのです。それは、instantにメッセージを届けるものでありながら、しかし同時に「インスタント」なメッセージを届けるものでもあるということだと思います。それを多用し依存してしまうことは、元来あった本質を見失ってしまうことになるのではないかと思います。それはちょうど、インスタントコーヒーばかり飲んでしまって、本来の美味しいコーヒーの味を忘れてしまうように。

今日の「夫婦別姓を定める法律は合憲」との判決について

まえがき

毎度のことながら、僕は法律に関して「も」ニワカ者、というか素人であり、専門的な知識を持っているわけではないですが、「ニワカ者の言い分」たる本サイトにおいては、それでも語る言葉を持つことを許していただきたいのであります。

免罪符張りの作業が終わったところで本題に入ります。

本日出ました最高裁の判決で、夫婦別姓を認めない民法の規定について、憲法には違反していないとの判断が下りました。この訴訟の経緯や議論の焦点などについては、上記のニュース記事を参照いただきたく思います。

今回考えてみること

さて、僕がこれから述べる議論は、夫婦別姓(或いは夫婦同姓)の是非ではなく、さらに言えば、最高裁が今回合憲であると認めたその判決自体への是非ですらありません。ニワカ者とはいえ僕には、

(ⅰ)夫婦別姓にすることによる個人(夫婦の子どもや、親族なども含む)にとっての合理性
(ⅱ)夫婦別姓を法で認めることによる社会にとっての合理性
(ⅲ)最高裁が「夫婦別姓を認めないこと」を違憲とすることによる社会と最高裁にとっての合理性

など、ざっと思いつくだけでも3つはファクターがあるように思われ、それらを比較衡量するには僕には知識が全く足りていないので、流石に議論が出来ないと思うのです*1

ということで、今回はシンプルに、「今回、最高裁が判決に際して言ったこと」について、述べてみたいと思います。

私見

その前にちなみに自分の意見を軽く述べれば、僕は夫婦別姓にしてもいいと思います。が、たとえ法が認めても、しばらくは夫婦同姓が多数派であることはほぼ疑いようがなく、夫婦別姓にするということは「敢えて」の行動になるため、あまり軽はずみに別姓にすることは誉められないとは思いますし、法が認めることでもし必要以上に夫婦別姓を助長してしまうとしたら、それはあまりよろしくないのでは、とも思います。

本題

さて、今回最高裁が判決に際して述べたことは、おおまかに以下の二つのようです。

  1. 夫婦同姓は、社会に定着していて、家族の呼称を1つに定めることには、合理性が認められる。家族の一員だと対外的に示し、識別する機能もある
  2. 夫婦同姓で氏を改める者が、不利益をこうむっていることがあるのは否定できないが、通称の使用が広まることで、一定程度緩和され得る

 

はい、僕には意味がよく分かりません。法律に詳しくないからというだけでは多分ありません。僕にはこのロジックがまるで見えません。分かる人いたら誰か教えて下さい。

一つずつ見ていきます。

1.夫婦同姓は、社会に定着していて、家族の呼称を1つに定めることには、合理性が認められる。家族の一員だと対外的に示し、識別する機能もある

ええ、まず、

夫婦同姓は、社会に定着していて

はいストップ。ちょっと。何ですかそれは。いや、社会に定着しているも何も、100年以上ものあいだ法律でそう定めてるんですよね?だから裁判になってるんですよね?再帰的にも程があるでしょう。今日は同時に、「女性の再婚禁止期間」を定める民法の規定について違憲判決が出ましたが、同じ論理で「女性の再婚禁止期間6ヶ月は社会に定着していて」って言えませんか。これは少し詭弁かもしれませんが。まぁしかしそれ故、

合理性が認められる。

とか言われても「は?なにが?」という話です。それ、街頭アンケートに答えた高齢者の「夫婦同姓の方が普通だし、そうすべきでしょ」みたいな意見とほとんど変わらないじゃありませんか。「Aが普通だから、それ以外は違法」って、もう、なんか、、ヤバくないですか?

続きます。

家族の一員だと対外的に示し、識別する機能もある

まぁ、それはあるんじゃないでしょうかね。あくまである程度ですが。まぁそれによって、これもあくまである程度ですが、旧姓の頃と同じ人間であると識別されなくなる機能もありますね。それが問題だって言ってんですが。

2.夫婦同姓で氏を改める者が、不利益をこうむっていることがあるのは否定できないが、通称の使用が広まることで、一定程度緩和され得る

「通称」というのは旧姓のことですね。結婚して姓が変わっても、普段の生活では旧姓を名乗り続ければ、不利益は緩和されますよね、ということです。

……ん?

通称の使用が広まることで、一定程度緩和され得る

えっ、えっ、

通称の使用が広まることで、

いやいやいやいや

さっき、

家族の一員だと対外的に示し、識別する機能もある

って言ってましたよね。

通称名乗ったら識別出来ないですよ?

……???

ええと、こういう筋書きでいいですか、

「夫婦だ、と分かりやすいから戸籍上同姓にしなさい。嫌だったら通称として旧姓を名乗りなさい」→旧姓名乗ったら夫婦か分かりにくく

な… 何を言っているのか わからねーと思うが(AA略

まぁ、役所は戸籍見ろよって話ですが、まぁ、民間でなにかの登録するときとかに免許証とかを一枚見せて、その際に「あ、苗字一緒だから夫婦(家族)ですねーオーケーでーす」ということで識別してもらうことが出来なくnそんな機会ってそんなあります?あっても住民票写しの一枚でも見せたりすりゃ済む話じゃないですか?

ということで

僕はこの最高裁判決の二つの判断根拠についてはよく意味が分からないですし、この二つが既に矛盾しているようにしか見えないので、判決自体の是非はどうあれ、色々ひどいと思います。要は、夫婦同姓を強制することによるメリット*2が、この説明だと全く分からないということです。いや、そんなことを説明するのは最高裁の仕事ではなく、最高裁が下すのはあくまで違憲かどうかの判断である、というのなら、矛盾をはらんだような中途半端なこと言わずに、憲法上の判断のみ述べればいいのではないでしょうか。もし上記の二つの根拠というのが憲法上の判断の根拠であるというなら(いやまぁそういうことなんでしょうが)、それはそれで憲法の番人として非常に心もとない印象を持ってしまいます。

少し視野を変えて

過剰な拡大解釈だと言われればそうかもしれませんが、今回の件で街頭インタビューや世論調査などを見ていて、やはり日本という国の島国根性というか、マジョリティがマイノリティを無自覚に虐げるメンタリティを感じざるを得ませんでした。「Aが多数派→だからA以外禁止」という論理は超危険だと思うのですが、それを無自覚に自然に口にしてしまうメンタリティが、日本人にこうも浸透しているのだということを再確認させられました。そして、司法府というのは少数者を救済する役割を一定程度負うものだと思いますが、それが立法府という、多数派によって意思決定する機関に対して、今回のような件の最終的な決定を投げるということは、なんだか僕には非常に象徴的な出来事のように思えます。

近代化・欧米化の中で、日本社会のそういう島国性というのは良くも悪くも段々薄れていっており、特に近年はそれが加速しているんじゃないか、という考えを僕は持っていましたが、ちょっと今回は冷水を浴びせられたような、そんな心持ちでありました。

*1:と言いながら下の方でやっちゃってるような気はしますが。。

*2:「夫婦同姓にすることのメリット」とは全く異なることに注意が必要