ここんとこ割とダウナーで色々とやる気なくなってたけど漸くやる気が再起してきたような気がするのでそれを気のせいで終わらせず既成事実にしてしまうために書く身勝手なはなし

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もうタイトルに詰め込んだわけですが、つまり、そういうことです。もうなんだかここんとこ全然やる気なかったのです。

こういうのには、バイオリズム的なものが関わってくるでしょうし、単純に体調の問題や、周囲の環境の問題もあったりで、色々とファクターが在るとは思うのですが、しかしまぁそんなにコロコロコロコロとやる気出たり出なかったりというのは、好ましいか好ましくないかで言えば好ましくないでしょうし、自分の場合は何しろ手元に武器が少ないので、やる気ないとか言っている場合ではないのにも関わらず、いつの頃からかやる気ないのがデフォという所謂「クズ」という人種に成り下がってしまっていたので(というかそれ故にいざという時に武器がない)、まぁ甘ったれた物言いに聞こえるのは万も承知ながら、しかして全く以て真剣かつ切実に「やる気」という問題が僕の中にあるのです。

「プロは言い訳しないで走り続ける中で調子を整えていく。あれこれ言い訳をして結局いつまでもやらないのはアマチュアだ」みたいな言葉を聞いたことがありますが、まぁ僕はプロではなくニワカ者、圧倒的アマチュアなので別に問題ないのですが、ニワカ者には言い訳だけでなく、言い分もあるのです。ということで、ニワカ者のニワカ者によるニワカ者のための「やる気」論を、ここに展開したいと思います。

仮説1:やる気は必要に迫られた時に出る

はい、これ仮説なんて書いてますけど、結構真理です。逆に言えばつまり、やる気がでないということは、自分が今それをする必要を感じていないからである、と。それならば別に、無理にやることなどないじゃないか、と。人間、必要に迫られればやる気が出る、と。また逆説的に考えれば、今何の気なしに自発的にやっていることは「やる気」があるからやっていることであって、そこから自分の姿というものも見えてくるというものだ、と。

至極正論であります。しかしコレ、結構恐ろしくもあるなぁとは実感するところでありまして、というのはコレよく考えると、落とし穴があるのです。

即ち、仮に「やる気は必要に迫られた時に出る」というのを100%認めたとして、しかし「必要に迫られ」る時が訪れることは別に全く保証されていないのです(笑) つまり、いつか必要に迫られる時が来るんだ、なんてずーーーーーーっとただ待ってると下手するとそのまま死にます。。

いやまぁ、現実的に考えてただじーーーーーっとしていた場合に、何の必要に迫られることもないまま即身仏のように死ぬ人間はなかなかいませんが、その場合恐らく迫ってくる必要性というのは、寝るとか食うとかトイレ行くとかそういう生理的要請に基づく「やる気」であって、或いはそれに繋がるような行動への「やる気」であって、「え、待ってた「やる気」ってそういうこと……?」と困惑すること請け合いで、なんか、あんまり意味がなさそうです。

しかし、最初に書いたようにコレ真理でもあるので、一旦保留として、次の仮説に行きます。

仮説2:やる気はやり始めないと出ない

仮説1に割と真っ向から対立するのがコレです。コレは、結構科学的な話です。ちょちょっと調べてみれば、かの脳科学者・池谷裕二さん*1による言葉でした。なんでも、脳の「側坐核」という部分が活動すると所謂「やる気」が出てくるが、その側坐核はまず自分が何かをやり始めないとそもそも活動しないのだそう。だからやる気なかろうが、まず理性やら何やらで以って兎に角やり始めて、それからやる気が出てくるまでやるのだ、と。

しかし、コレはコレで考えものです。「やる気」が無かったら文字通り「やる気ない」からやりませんよ、と。理性とかで無理やり「やる」ことが出来るならそもそも苦労しませんよ、と。というかそれが出来るなら逆に「やる気」なんてもの必要なくなるじゃないか、と。なんだかそう考えてくると、科学的観察に基づいた事実であると分かっていても、なんだか「やる気はやり始めないと出ない」なんて単なる詭弁のようにも思えてきます。

しかし、されど、事実なのです。

ということで。

アウフヘーベンのお時間です

対立する二つの仮説を、両方肯定(或いは否定)して、より高次の結論を出します。と書くと凄いことのようですが、一次式でやってても解決しないから二次式にしちゃえー、って二次式でやるとあっさり解ける、みたいな、数学ではよくあることのようにも思えますが、まぁ別に理系でも文系でもない*2ので、この辺にしときます。

ということで「やる気は必要に迫られた時に出る」と「やる気はやり始めないと出ない」を、両方肯定したり両方否定したりしてみます。と、こう並べてみればむしろ対立してないようにすら思え、というのは単純につなげつつ行間を補完すると「人間は、必要に迫られた時に行動に出て、そしてそれによってやる気が出てくる」ということになります。

しかしこれだと仮説1当初の「必要に迫られない問題」が解決されないままで、それに対してアンチテーゼ(仮説2)の「必要に迫られるのを待たずに行動すべし」が登場し、すると「それで行動できるならハナから『やる気』なぞ要らん」となってくるので、やはり高次化が必要です。ということで、メタな視点で捉えます。即ち「必要」を感じるのは誰か、です。

先ほど「理性」という言葉をちらりと出しましたが、「『やる気』を待たずに行動すべし」と言う「人」を、ここでは「理性」としましょう(或いは「超自我」とか言ってもいいかもしれません。知らないですけど。)。やる気を感じてやる、というのは一般的には割りと身体的なニュアンスで言われているような気がします。やる気が身体にみなぎる、とは言いますが、やる気が頭にみなぎる、とか、やる気が心にみなぎる、というのはあまり言わないというか少し違和感のある言い回しな気がします。こう、どこからともなく湧いてきたやる気が自然と身体を動かす、というイメージがあります。しかし、この「『やる気』を待たずに行動すべし」と言う「理性」さんは、もうちょっと高次なところにいそうです。彼の力を借りてみましょう。

「理性」さんが必要を感じた、もっと言えば、必要であると判断した時、多分この時に「やる気」が出ているならば、我々は常日頃から理性的に行動しまくって世界はかなり平和になりそうなので、恐らく「理性」さんが必要性を認定したとしても「やる気」は出てないように思われます。もっと低次の、身体的な次元において必要性を感じた時に(おなかがすいたとか、運動がしたいとか、クスリが欲しいとか)、「やる気」が出る、或いは行動に出て、結果的に「やる気」が出る、ということになりそうです。

つまり、問題は「理性」さんと「身体」の断絶にあるわけです。「理性」さんが「これは今の私にとって必要な行動だ」と思っても「身体」がそれを感じていないと行動に出ないわけなので、結果やる気がでないのです。しかし、逆に言えば「理性」さんが「身体」に対して一計を案じ、何かの小さな「行動」をさせる、或いは何か「行動」したくなるような状況を作る、ことによって、「理性」さんは「やる気」を間接的に手に入れる手段を得ることが出来ることになりそうです。

まとめます。

仮説1:やる気は必要に迫られた時に出る

仮説2:やる気はやり始めないと出ない

「理性」が必要性を感じたら「身体」に対して

1.なにか小さな行動をさせる

2.なにか行動したくなる状況を作る

ことによって「やる気」は出すことが出来る

以上。

「やる気」は、間接的に*3、出すことが出来る、という結論になりました。

このより具体的なことに関しては、個々人でなんとかして下さい、という感じですが、まぁ本当に数秒で終わる小さなステップを作ってそれを可視化しておく(「冬休みの旅行計画」とかをタスクにしないで「『旅行 冬』でぐぐる」をタスクとしてどっかに入れたり貼ったりする)とか、特定の行動を誘導する状況をあらかじめ作っておく(座り心地のいい椅子と丁度良いテーブルと、その上に読みたかった本を置いておく)とか。まぁ具体的に書くと、なかなか卑近な感じですが、考え方としては色々応用ができて、且つ、習慣とかに昇華してくると、かなり日常のパフォーマンスは上がりそうだなぁと思っています。

……いやまぁ、こんなことわざわざ論じずとも、みなさんそれぞれに工夫して、習慣であったり生活環境であったりを作っているんでしょうし、僕が論じたようなことを無意識でやってらっしゃったりされてるんでしょうが、しかしこれは僕がニワカ者である故にわざわざ論じる必要があったのだと思われ、それ故に、僕というニワカ者が論じる役割を負う必要性があるのではないかと感じ、それ故に食卓の大きなテーブルの上にMacBookと、ボウモア12年*4とチェイサーを用意し、姿勢を正して腰掛けてみたのです。

※注:今回は便宜上、「身体」を低次、「理性」を高次、なんて言ってますが、これに関してはいろいろと問題のある言い方で、むしろ逆であるという論もありそうですし、そもそもそんなものを分けるのが不自然云々という議論もありそうです。ので、繰り返しとなりますが「今回は便宜上」という免罪符を、置いておくことにしますので、何卒ご容赦下さい。

*1:一般の人間にも分かるように、最新の脳科学の知見を記した著作で人気の東京大学教授。中学生の時分だったかに著作を読みましたが、非常に面白く且つためになる内容で……あぁそうか、僕は生徒にはこういう本を勧めればよいのか

*2:一応僕は経済学部卒なのですが、やる気がなかったのでゼミに入らず卒論も書かず卒業しており、もうそこも全く以てニワカでした

*3:そう、あくまで間接的に、というとこがミソだと思われます

*4:スコットランドアイラ島、島最古のボウモア蒸留所にて作られるシングルモルトウイスキー。この島のウイスキーはどれも個性が強く、しかし押し並べてスモーキーフレーバーが特徴ですが、その中では比較的穏やかな香りと、スムースな甘みを兼ね備え「アイラの女王」の異名を持ちます。好きなんです

記号で生きている人

メモ書き程度ですが。

「もしかしてこの人、記号で生きてる?」という人に会うことがあります。結構会います。

というのは、ものを見たり聞いたり感じたり考えたりその他するのを、記号を使ってやっている人のことです。

いや、まぁ誰しも多かれ少なかれ記号を用いて、見たり聞いたり云々をしているとは思うのですが、なんというか個人的なイメージでは、記号というのは、見たり云々の一助としては有用なもの、でありますが、あくまで一助であって、頼り切っちゃうと本質を見逃してしまうというか、記号だけ見てる人になっちゃうなぁ、と思うのです。

例えば、僕は高校生の頃に担任の先生に「音楽もいいけど、音楽のことばっかり考えてちゃいかん」みたいなことを一度言われた記憶があるのですが、確かに僕は高校生で軽音楽部でバンドをやっていて行事の度にバンドを三個とか掛け持ちして、そして勉強もろくにしない、というか全くしない、試験勉強は当日の電車の中で、という感じだったので、なんというか典型的な高校生バンド野郎に見えるのですが、あんまり頭のなか音楽ばっかりだった、という記憶はなく、むしろ好きな女の子のことが九割、みたいな感じでありました。当時の担任の先生を責める気も毛頭ないですが、彼は僕のことを「高校生バンド野郎」という記号で以って理解していたんじゃないかと思うのです。というか言われた時にリアルタイムでそう感じたのが、何故だかはっきり記憶に残っています。

とは言え、正直僕が彼の立場だったなら、40人くらいいるクラスの生徒の内面まで把握するなんてことは到底無理だろうと思うので、その生徒の言動と、既存の記号というもので近いものを結びつけて、理解の一助とするというのは、意識的ではないにせよ何というか、常套手段であると思うのです。しかし、このケースのように、本質を見誤ることもあるということです。まぁ代わりに「好きな子のことばっかり考えてちゃいかん」と言われても困ったのですが。いや、困らなかったかな、それはそれで面白かったかな。

そういえば、ドイツに行った時に、400年以上前からあり非常に歴史ある喫茶店、カフェ・バウム*1というところでコーヒーを飲んだのですが、Wikipediaを見れば分かる通り、ゲーテだのシューマンだのリストだの、しまいにはナポレオンまで、ここでコーヒーを飲んだと伝えられているのですが、もうここまで来ると記号過剰なくらいですが、さぞや美味しいコーヒーだろうという感じで満を持して飲むと*2、まぁ別に普通というか「ガチで中の下」くらいのクオリティでした。記号で生きている人はこれを美味しいと感じるのかなぁ、とか、或いはもっと、「これが本場の正しいコーヒーなんだ」*3とか思ったりするのかなぁ、とか思うのです。

ともあれ、記号にばっか頼らず、ちゃんと目を開いて、耳かっぽじって、頭回して、要は感覚と思考をちゃんと働かせてないと、マジで記号に埋もれてなんにも見えないんじゃなかろうか、なんて余計なお世話だったり、自戒だったりで、思うのです、というはなしでした。

P.S.

あ、でも、所謂「作品」と呼ばれるもの全般は、記号盛り盛りのメタメタしいものが面白かったりしますね。まぁそれは別かなぁとも思いますが、でもやっぱり、いくら記号盛り盛りでも中身がなかったら面白くなさそうだし、見る側も面白い作品だとしても盛り盛りの記号を読み解いて「あれは、これこれこーいう意味があって」なんてしたり顔で言ってるだけの人は、本当にこの作品楽しんでるかな?という感じ、むしろ記号読み取りゲームを楽しんでるだけでは?、とも思うので、まぁそれはそれで楽しいのは認めますが本質ではなさそうなので、やっぱり記号ばっか追っててもダメそうです。

*1:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%BB%E3%83%90%E3%82%A6%E3%83%A0

*2:というのは実はちょっと誇張していて、実はドイツの他の店でコーヒーを飲んでいたので、そんなに超絶な期待はしていなかった

*3:まぁこれに関してはその通りかもしれないわけですが、美味い不味いの基準がそれで変わったりするのは問題ありそうです

メタ

我々はいま、シナリオのない演劇を演じている。

かつては、我々は当然のようにシナリオに沿って動いてきた。そのシナリオに沿って役割を演じていれば、どうやら素晴らしい作品が出来上がるらしい。そんなことを信じて、我々は演技を続けてきた。

しかし、段々と「そんなシナリオはダメだ」という人たちが現れてきた。

確かに、言われてみればそうである。どうにもそのシナリオは胡散臭く見えてきた。そんなシナリオに従ってなんていないで、やりたいようにやればいいじゃないか。そんな風な考えが、我々のうちにも増えてきた。自由というものは素晴らしいじゃないか、とも。

しかし、そんなことを続けてきたら、なんだか演劇はばらばらとしてきた。まとまりがなくなってきたり、そうかと思えば気を使いあって、かえってやりたいことが出来なくなったり、かつてのシナリオがあるかのように演る人もいれば、勝手なことをし始める人もいる。「もうなんでもいいんじゃないか?自由なんだし。」という人もいた。自由を謳いながら人を傷つける人もいた。

そんな中、秘密裏にシナリオを作る人たちも出てきた。シンプルで魅力的なシナリオに、いやむしろ、「シナリオを提供してくれる」ということに魅力を感じて、一部の人々はそのシナリオを演じた。しかし、そのシナリオには演劇全体を崩してしまいかねない内容のものもあった。劇全体のために、そういったシナリオは中断させられることとなる。とは言え、そういうシナリオは一つだけででなく、今でもそんなシナリオを演じている人達もいる。

僕は思う。この、シナリオのない演劇は、本当に素晴らしい作品となることは出来るのだろうか、と。そういえば、「そんなシナリオは」なんて言ってた人たちはどこに行ったろう。そもそも、シナリオは確かに胡散臭かったが、シナリオに従わないで自由にやれば素晴らしい作品になる、なんてことは誰か言っていたろうか。言っていたかもしれない。しかしその話は本当に妥当性のあったものだったろうか。我々は本当にそれを検証しただろうか。どちらかと言えば、シナリオのウソを暴こう、という熱に、みなが浮かされていただけのようにも思える。

この演劇はなんだかあぶなっかしくて、確かに時折面白い演者が現れ、驚きがあることは間違いないが、しかし、これが素晴らしい作品にちゃんと向かっているかは甚だ怪しい。今更かつてのシナリオには戻れない。だけど、あれにとって変わるような、素晴らしいシナリオを書ける人は誰かいないものか。と考えてみたけれど、そんなのを一人で書きあげられる人なんか、この劇団の中にはいないんじゃないか。だけど、誰かに頼んでみようか。新しいシナリオを書けないかと。その人一人で完成させるのは無理だろうけど、まずは叩き台となるようなものを書いてもらって、そのあとみんなで少しずつリアルタイムで修正していくしかないんじゃないか。自由演劇もいいけど、その要素も活かしながら、シナリオというものもあった方がやっぱり良さそうだ。

そうして、僕は新たなシナリオを求める役についた。