ブレードランナー2049

【大いにネタバレを含みます。】

【というか作品を見た前提で書いていきますので、見ていないとよく分からないと思います。】

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ハリウッド版『ゴーストインザシェル』を見たときに感じた「なんとも言えなさ」とは全く異なる「なんとも言えなさ」を感じたのは確かです。しかし本作は美しい映画でした。ラストの"Tears in rain"の美しさは、これから考えれば考えるほどに、その印象を深めていくでしょう。

その直前のシーンですが、Kはデッカードに"お前は俺の何なんだ"と問われます。バーカウンターで飲んでいるときの会話を踏んで、ここでKは"Stranger."(他人、見知らぬ人)と応えるのか、とそう思いましたが、実際には何かを言おうとしてか否か、微笑んで、"娘さんに会いに行け"と答えるのみでした。

そもそもKが、ラヴ達による襲撃・デッカード拉致の際にその場に放置されていたのは何故でしょうか。恐らくラヴ達には、Kは「子供」ではないと確信を持って分かっていたのでしょう。マダムとラヴのシーンにおいて、マダムは恐らく前段のKとのシーンで、Kこそがその「子供」であるというKの認識を察し、彼に逃げる猶予を与えていたように思われますが、ラヴはあくまでKを「子供」或いはデッカードへと辿り着くための鍵であるとしか考えてなかったのでしょう。

そしてその後、K自身も自らが「子供」ではないと認識します。思うに、客観的に見ればこの時点でKは本当にデッカードの「他人」でしかないわけで、本来は放っておいても障害になりえない存在です。しかし、これがラヴの誤算でもあったように思います。

Kは「大義のために死を厭わないのが人間的である」という命題を胸に、デッカードを救うために、そして本当の「娘」であるステリンと会わせるために、戦いに赴き命を散らします。雪が降り積もってゆくこの美しいシーンが、彼の死を断定的に表現しているであろうことは、そのBGMが前作からの引用である"Tears in rain"であり、それが流れる前作のシーンが、デッカードを追い詰めながらも最後には彼の命を救ったレプリカント・ロイの死のそれであることから明らかであるはずです。

では、この二人のレプリカントはともに何故デッカードを救ったのでしょうか。

前作でロイはデッカードを救った直後、今わの際に「はかなさ」について言及します。雨の中の涙のように我々はいずれ消え行く存在なのだと。頭脳も肉体も人間よりも優れるレプリカントも、心を持つことで死を恐怖し、死を哀しむ、弱き存在になるのだと。今まさに死の恐怖に直面していたデッカードに対してそれを伝え、理解して欲しかった。それがロイがデッカードを救った理由の一つだったように思います。そしてそれによって、ロイは非人間的なレプリカントとしてではなく、極めて人間的存在として、死んでいくことができたのです。

Kはどうでしょうか。Kにとっての「大義」とは一体何だったのでしょうか。色々と解釈の余地があるのですが、僕はこう考えたいと思っています。即ち、Kにとってデッカードはもう父親のような存在であったのではないか、と。その父親を救い、本当の娘と再会させるということこそが彼にとっての「大義」だったのではないでしょうか。「誰かを愛するためにはときには他人にならないといけない」そんな哀しい父親のセリフに反発するかのように。

これを考えるためには、今作にはメタ視点が潜んでいることを理解する必要があるように思います。例えば僕が一つ疑問に思ったのは、デッカードが言うように「レイチェルの瞳は本当に緑色だったのか?」ということです。これは、ウォレスが用意したレイチェルの複製に対して、大いに逡巡や動揺を見せながらも、デッカードが口にしたことですが、恐らくレイチェルに関して完璧にデータを持っているはずのウォレスが、そんな凡ミスをするだろうかと。

これはデッカードによる単なる口実のようなものだと僕は考えていたのですが、このセリフ、どうやら前作監督のリドリー・スコットの提案によって、今作において採用されたとのこと。そこで果たして前作においてレイチェルの瞳はどうであったのか調べると、なんと茶色とのこと。では何故?とさらに調べると、なんと前作のVK法(レプリカントと人間を判別する方法)をレイチェルにかける際、瞳のアップのシーンにおいてのみ、別のモデルを用いたために撮影上のミスとして、グリーンの瞳が映し出されたとのことでした。ウォレスからしたら「そんなの知らねーよ!」とレプリカントを腹いせに殺しまくりそうです。

さて脱線しかけてますが、Kがデッカードを救った理由です。ここにもメタ視点が潜んでいるような気がしています。そもそも、この映画の物語はKの視点で描かれているため、観客におけるKは「子供」であるのか否かという現状判断は彼と一致していて、その揺さぶられ感もKと共通・共有しています。本当の「子供」は娘であるということを告げられた時に、衝撃を受けた方も多いのではないでしょうか。しかし、その直後に「なんだ、デッカードなんて本当に他人で、助ける義理も何にもないや」と切り替えられるでしょうか。恐らく観客の多くは、そうは思わないのではないでしょうか。特に、前作からの思い入れのある人間にとっては、「あのデッカード」の30年(或いは35年)後のデッカードが、そこにいるわけです。記憶がコピーされたものだとしても、Kにとってもはやデッカード父親のようなもの、そんな実感を否定できないのではないでしょうか。これも、ウォレス側からしたら「知らねーよ!!」案件です。なんだよ前作からの思い入れって。そもそも前作ってなんだよ。という感じでしょう。

そう考えると、ウォレス側の失敗の要因は、全て作品世界の外側からの僅かなひと押しだと言えるかもしれません。

しかしいや、Kらの立場で冷静に考えるとひどい話です。レジスタンスのリーダー・フレイザの「ここでは誰もがそう思うの」という口ぶりから、本物の「子供」を隠すために、K以外のレプリカントにもステリンの記憶のコピーを行っている可能性があります。いわば彼らはみな利用されていたわけです。それでも「レプリカントの権利を勝ち取る」という大義のために、みな戦っています。

しかしKが彼らとは違う点は何か。それは、観客と視点を共有している、という一点でしょう。その一点によって、Kは力を得ています。だから彼は、単にレジスタンスの一員として加わることよりも、デッカードの息子になることを選んだ(選べた)のではないでしょうか。これは、ただ「息子同然」というだけの意味でなく、あの行動、つまりはラヴを襲撃してデッカードを救い出すという行動が、ウォレス側からすれば想定外であったあの行動が、「Kこそがデッカードの本当の子供である」ということにしてしまったのではないでしょうか。本来であれば、単なるレプリカントとしてあり得ないあの行動によって、Kは世界を騙そうとしていたのではないでしょうか。

もしそうなら、ここに美しい構造が見えてきます。Kは「人間らしく」「大義」のために死に、そしてレプリカントとして「子供」を処理するという命令をも果たしたことになります。それによってKは、人間でもあり、レプリカントでもある存在になれ、それは即ち人間であるデッカード*1と、レプリカントであるレイチェルとの、ハイブリッドとしてのアイデンティティを獲得することにほかならないのではないでしょうか。

人間もどきと罵られ蔑まれ、一時は獲得したかに思えたアイデンティティもニセモノと明かされ、それでも最後には自分の力でそれを勝ち取る、そんな感動的な物語に、僕には感じられたということでありました。

【重要な余談】

AI子、と勝手に呼んでいますが、つまりジョイです(この名前って作中で出てきてましたっけ?)。あのAI子のヒロイン力がもうなんか凄くないですかね。まぁそりゃ、恋人になるように生産されているわけなので、そりゃかわいいし、献身的ないい子だし、「あなたは特別よ!」とか励ましてくれるし、なんてのは当たり前っちゃ当たり前なんでしょうけど、分かっててもなんか凄い。実体が存在しないという点を除いて、もう完璧なヒロイン、いや実体が存在しないゆえに完璧なヒロインとも言えるかもしれませんが、とにかく完璧なヒロインだと思っています。

一方で、レイチェルはやっぱりあの変な髪型で出てこられてもちょっと……と思ってしまっていけません。前作でも髪を下ろした時にやっと可愛さ分かった感じがありました。正直、今作のあの場面で髪下ろされたらストーリーひっくり返ったんじゃないか?と思うくらいのインパクト感じてます。瞳が緑色とか言ってる場合じゃなくなっちゃうと思うんですが。

あとやっぱり前作の大きな魅力は、あのSF世界を映像化したことであって、今作もそこが注目点だったわけですが、これに関しては個人的には及第点という感じです。前作の公開当時は、あのスモッグ立ち込め陰鬱とした、東洋と西洋がごちゃまぜになったロサンゼルスが画期的だったわけですが、30年後を描いた今作になにかそういう画期性があったかというと、正直そうは感じられず。しかしまぁヘタなことをやるよりいいですし、2019年のままというわけでもないので、こんなもんじゃないでしょうか。この点については、以前書いたハリウッド版『ゴーストインザシェル』が悪い例です。まぁあれもサイアクとは思ってないですが、やっぱりオリエンタリズム感が気に入らないです。芸者ロボとか。その点、今作は東洋と言ってもやたら日本推しでしたが、なんとなく日本への愛は感じました。

とか言ってたらこんな動画を見つけた…

『ゴーストインザシェル』というか『GHOST IN THE SHELL』、いやこの書き換えあまり意味ないですね。要は押井守版『GHOST IN THE SHELL』(以下『ゴースト』)との、或いは攻殻機動隊の世界との比較をしてみると、いずれも「人間とは何か」「何が人間を人間たらしめるか」というのが重要なテーマの一つだと思いますが、そのアプローチのベクトルが真逆であることに気付かされます。『ゴースト』においては義体化などによって人間が人間から離れていき、最終的に脳も含めた肉体をすべて捨てても、「意識」は人間たりうるのではないか、まで行くわけですが、『ブレードランナー』においては人間と似て非なる存在として作られたレプリカントが人間に近づいていく、という方向です。ある意味で雑に言えば、人間概念の捉え方として『ゴースト』が革新的で『ブレードランナー』は保守的なわけですが、『ブレードランナー』の面白さは、同時に人間が人間性を失っていく様も描いていることによって、レプリカントというニセモノのほうが本物よりよっぽど本物らしくなりうるということを描いているところだと思っています。

あと今作で個人的にとても気に入ったのは、レプリカントの能力表現がこれみよがし的でなく、説明的でないところでした。冒頭の戦闘シーンや、ラヴ襲撃時とかに、普通に壁突き破っちゃうところとか、割とさり気なくレプリカントの身体能力の高さを表現していて、好印象でした。あと、21年6月10日生まれのデータを目視で全部見てくとことか。
(主人公の脳の処理能力の凄さを、鼻血を出すことで表現している某劇場版アニメは嫌いです)
また、余計なCGは使わない感じも、この作品の生々しさであったり、格調を高めている感じがあり、全体的に上品な印象でした。

そして、なにより、ハリソン・フォードの素晴らしさですね。やっぱり偉大な俳優なんだなと素直に感じました。登場時間は後半3分の1程度でしょうか。それでも圧倒的な「持っていき」力です。全シーンで演技が光っていました。前作のときも素晴らしい演技を……してたかなぁ……ちょっと記憶に…………。

ということでいい加減余談も〆ますが、とにかく僕は今作は美しい映画だったと思っています。そりゃ、前・中盤が結構冗長だったとか、ステリン博士の「誰かの記憶よ」というセリフをKがどう解釈したのかの微妙さ(非常に重要かつ印象的なシーンなのに、「え?どっちで取ってる??」みたいなので感情移入できなかった)とか、レジスタンスのチョイ出し感とか、最終的にステリンがデッカードの娘だと分かるロジックがあまり明確でなくて急なこととか、それが分かったときの「ああ!だからあんな感じであの人フォーカスされてて、おまけになんかちょっと可愛かったのか!」ってなっちゃう感じ(これ別に悪い点でもないか)とか……残念な点がないわけではないのですが、それを補って余りあるように感じられる構造美と映像美。見終わった日はその後、取るもの手につかずという感じで少しぼんやりとしていました。ここまでネタバレ満載のものを読んで、まだ今作を見られていない方はあまり居ないと思いますが、もし万が一いらっしゃるならば、お早めに劇場へ足を運ばれることをオススメいたします。

*1:デッカードレプリカントではないかという、前作からのテーマがあるわけですが、今作においては「もはや」という条件付きでも人間であると解釈したほうが自然な気がしています

『君の名は。』に見る欺瞞;対称性、必然性、童貞性

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(C) 2016「君の名は。」製作委員会

今月、Blu-ray, DVD発売とのことで、そういえば書いていなかった本作の感想を載せておこうと思います。一応言っておきますが、本稿では盛大に物語の核心にも触れていますので、未視聴の方はご注意下さい。

なにしろ歴史的な大ヒットの本作です。時折、否定的なコメントも見られるものの、基本的に世間においては絶賛の嵐なわけです。そんな中、僕としてはなんとも微妙な評価をしていて、決して悪いアニメではないと思いますし割りかし面白かったと思うのですが、なんというか「おざなり」な印象は拭えず、見終わった直後には頭の中には疑問符がたくさん浮かび、考えるにつれ色々と分かってきたのですが、それは「何が納得行かないか」が分かってきたのであって、評価が好転することはありませんでした。良し悪しで言えば、どちらかと言うと良い、くらい。好き嫌いで言えば、どちらかと言うと嫌い、くらいです。

では何が「おざなり」なのか。巷でよく言われる「彗星の軌道がおかしい」といった指摘や「物語がご都合主義だ」といった指摘とも、少し異なります。前者については、中学生レベルの間違いであるので、まぁ単純にダサいのですが、それを以て作品の評価を下げるというのは、個人的にナンセンスであると思います。無論、これがSF作品であれば、そんなミスは許されませんが、本作はSFではないと思いますし、SFとして見るのは流石にミスリードと言わざるを得ません。同様に、ちょっと次元は異なりますが、タイムパラドックスを指摘するのも、ちょっと本質と違うかなぁと。また、後者については今敏監督『東京ゴッドファーザーズ』という、ご都合主義上等の姿勢でめちゃくちゃ面白い作品がありますし、別にご都合主義だろうと面白い作品はいくらでもあるはずです。本作にリアルさを求めるのもお門違いでしょう。「なんで周りは気づかないのか。また本人たちも入れ替わりの『真実』について何故気づかないのか。」「何故電話やメールをしなかったのか」なども同様。言ってしまえば「野暮」です。

では何が「おざなり」なのか(二回目)。それは、主人公二人の物語構造における対称性と、その出会いの必然性についてです。

本作は、「入れ替わり」や「タイムリープ」といった要素を取り入れながらも、その根幹にあるのは「ボーイミーツガール」「ガールミーツボーイ」です。こういう類の物語には様々な形があると思いますが、「入れ替わり」というギミック、田舎と都会という対照性など、厳密な意味でのシンメトリーではないですが、この二人の主人公たちが対称的に物語の中心に位置していることは、シーンの描き方などから見ても明らかです。三葉は東京に行き、瀧は糸守町*1に行ったシーンもありますし、これも対称的です。そして、この二人の出会い・入れ替わりが、物語の軸にあります。

二人の絆

ではその二人を結びつけたのは何なのか、というと、一つの答えは「組紐」なのですが、それ以前に、入れ替わりの発生原因を考えねばならず、直接的というよりも間接的な要因となるでしょうが、これはやはり、「ティアマト彗星」に他ならないでしょう。ティアマト彗星が糸守を滅ぼしてしまう、それを避けるための入れ替わりであり、その能力を持つのが三葉の家、宮水家の巫女の血筋です。そして、その破滅をもたらすはずの彗星は、本作において非常に美しく描かれます。彗星じゃなくたって、隕石とかだっていいはずで、もっと恐ろしく描くことだってできるはずですが、本作の破滅は美しき彗星の形を取っています。それはやはり、この彗星の存在によって二人は出会うからであり、この出会いが本作の主題だからです。この彗星が割れ、その「片割れ」が糸守を破壊し、二人を生と死によって分かつ、というのも象徴的です。

こう書いていくと、よくできた作品に思えてきます。また、僕が本作において評価しているのは、民俗学的なモチーフや、言葉遣いの上手さです。「組紐」や「口噛み酒」といったパーツを象徴的に捉えて物語に組み込んだり、「彼は誰(かはたれ)時」→「片割れ(かたわれ)時」という方言的な変化は結構ありえそうだなぁと思わせつつ、それを物語の重要なところにガッチリ絡ませる手腕は、正直言って感嘆してしまいました。それ故に「ご都合主義」とも言われるような部分についても、僕はちょっと言いくるめられてしまっている感が否めません。

が、どうしても納得できない点がいくつかあり、しかもそれが物語の根幹にある「ボーイミーツガール」「ガールミーツボーイ」の観点において、致命的に思われます。

三葉の突然の行動の謎

一つ目は、先述の「組紐」について。瀧はずっと組紐をブレスレットとしてつけていますが、これは三葉が瀧に会いに東京に行った際に渡したものです。この時点では瀧は三葉を知りませんが、三葉はまさか入れ替わりが3年の時をも隔てたものとは思いもよらないので、会いに行ったのでした。しかし、ここで疑問がわきます。何故、三葉は突然学校を休んでまで、急に岐阜から東京まで、しかも手がかりもほとんどないままで、瀧に会いに行ったのでしょうか。物語上は一応、瀧が先輩とのデートをする日であるとされ、それが気になって、という風に描かれますが、それにしても奇行です。

ただこれは、あくまで「デートが気になって」というのは名目でしかなく、実際には瀧自身のことが気になって、好きになってしまって、小さな嫉妬心のようなものも相まって、会いに行ったのだ、とするのが妥当でしょう。が、これが、これこそが問題です。即ち、いつの間に三葉は瀧のことが気になったり、好きになったり、していたのでしょうか。

これは「行間を読め」とかいう話でなく、画面上での物語の見せ方の問題をはらんでいます。三葉と瀧は、入れ替わりが起こっているさなかにおいては、直接会うことはできなかったわけで、まさに入れ替わっている間と、入れ替わったあとに、相手の行動の痕跡を周りの人間や自室の状況などから感じ取ることでしか、お互いのことを知る手段はないわけです。では、その入れ替わり期間において二人はどのような行動を取っていたか、というのは、観客にも見せられますが、ちゃんと描かれるのは「三葉 in 瀧」だけであり、「瀧 in 三葉」については、おっぱい揉んだり揺らしたりくらいしか描かれず、観客的には瀧という主人公の内面がいまいち分からないまま、物語が進行します。一方三葉は、友人たちとの日常や、バイト中の振る舞いであったり、奥寺先輩と瀧の恋を応援してデートの約束まで取り付けたり、など色々と行動を見ることができて、三葉というキャラクターの魅力は、観客に十分伝わるように思われます。そこに非対称性があります。

そんな中、入れ替わりが起こらなくなり、彗星が落下し、糸守は滅び三葉は死にます。観客は三葉に対して感情移入できていますし、「入れ替わり」という奇妙な縁が突然切れてしまった、ということから、なんだか胸騒ぎがして三葉を探しに行く、或いは、三葉のことが気になってしまう、という瀧の行動・感情も、十分理解可能であると思います。この旅の中で、観客としてはやっと瀧の人格が分かってくるわけですが、しかし、とは言えこの後、町民の避難に奔走する中で明かされる、先述した三葉の上京については、やはり「うんうん、瀧くんはこうやって糸守町を救おうと頑張っていていいヤツだし、入れ替わりの中でも(なにも描かれなかったけど)きっと三葉が何か魅力を感じるような素敵な行動をしていて、それで三葉は瀧くんを好きになったのだろうなぁ、そういえば瀧 in 三葉もモテていたし」なんて大回りした理解には流石に気持ちが追いついてこず、「え、なんで三葉、急に東京行ってたの…」となってしまいました。

「入れ替わり」の必然性

問題の二つ目は、この「ボーイミーツガール」「ガールミーツボーイ」によって、その出会い・入れ替わりによって、ティアマト彗星衝突の破滅から抜け出す、というのが、本作の非常に重要なプロットのはずですが、よく考えてみると、そうでもないことが分かります。というのも、最終的には三葉が自分の身体に戻ってから、町長である父親を説得し、それで避難が実現したためです。もちろん、ここには瀧と仲間たちとの奔走も前提としてはあるのですが、決め手が三葉自身になってしまっているので、どうも「入れ替わり」によって破滅を回避した、という線が弱まってしまっているように思われます。三葉が瀧、否、瀧だろうが誰でもいい、少し未来の適当な誰かと入れ替わって、彗星落下についての記事やらニュースやらを目にする、とかで良かったんじゃないか、いやなんなら、入れ替わりである必要すらなく、予知能力的なものでよかったんじゃないか、とかそんなことを考えてしまいます。ここはあくまで「瀧 in 三葉」でしか成せなかったような方法で、破滅の回避をする必要があったのではないか、と思うのです。そうでなくては、瀧と三葉の出会う・入れ替わる必然性が揺らいでしまうので、物語が完全に瓦解してしまいます。

それでも成立させる新海誠の筆致

正直言って、本作は基礎工事に欠陥があります。しかしながら、それでもこれだけのヒットを飛ばし、多くの人々に受け入れられたのは、新海誠監督ならではのシーンの美しさと、川村元気氏のプロデュースの手腕に尽きると思います。また、もちろん語るに外せないのはRADWIMPSによる劇中・主題歌です。これは非常に話題になりましたし、存在感がありました。個人的には、残念ながらとても鼻に(耳に?)ついて*2、印象が良くないのですが、まぁ一般には広くウケるであろうと思います。こんな言い方もなんですが、とにかく見てくれが良いのが本作だと思います。上記で指摘したような構造上の問題など、多くの人に気にさせないようなテンポの良さと、シーン・音楽の力によって、もはや一種のパワープレイ的に作品を成立させて見せてしまっているのです。

本記事のタイトルに、敢えて「欺瞞」という強い言葉を使いました。それは、上記のようにパワープレイであることについても勿論そうですし、新海誠監督作品がときに「童貞」という言葉とともに語られることとも、少し関係しています。僕は新海誠作品に「童貞」感をあまり感じません*3。が、しかし、「そういった風に見せようとしている」という感じ、或いは、「そういう純粋さへの憧憬」のようなものを、どこか感じるのです。『君の名は。』については、物語においては新海誠の作家性がある程度抑えられた上で、しかし彼の描くシーンの美しさはそのままに、大衆性を獲得し、大ヒットを産んだのだと思いますが、一方で本作においても「童貞感がある」といった批判も見られます。断じて違うと思います。本作に限らず、新海誠の「童貞感」は欺瞞であると思います。主人公・瀧は、その人物があまり描かれないままに、必然性無く三葉と(こちらは魅力的に描かれる)繋がり、とある「イケメン高校生」として、理由なくモテて、最終的にヒロインとハッピーエンドを迎えます。これを童貞の妄想と見るか、強者の論理と見るか、によって分かれるのかもしれません。しかし、どうにも僕には後者に見えてしまうのです。それは、単に「高校生」「青春」「ラブコメ」などのキーワード等に因るものでなく、「懐疑のない者ほど楽しめる」というまさにリア充的構造によって、言えるのではないでしょうか。「本作は例外である、新海誠の本来の作家性は童貞性にある」という声もあるでしょう。が、それに対して、「結局この新海誠という監督は、なんだかんだ、ここまでの大ヒット作品を作れてしまっている」と言うのは、最早僻みに近い邪推にすぎるのでしょうか。

*1:あえて野暮なツッコミしますが、人口約1,500人しかいないとのことなので、コレ絶対町じゃなくて村です。糸守村でよかったじゃん?なんで町ってことにしたん??

*2:別にちゃんと見てなかったのですが、2002年のドラマ『天体観測』においてBUMP OF CHICKENの曲が非常に鼻についたのと似ています

*3:と言っても、本作と『秒速5センチメートル』しか見たことがないですし、これから見るつもりもないのですが。ちなみに『秒速』は個人的に最悪の映画で、本当に時間を無駄にしたと思いました

日々の徒然と告知

暫く前からコーヒーのネルが随分ヘタってしまっていて、いい加減替えねばとずっと思っているのですが、大した値段ではないながらも、なんだかこれっぽっちの布切れの割にちょっと割高ではないか、という念に段々と支配されてきてしまい、自分で生地を買って縫って作ってしまおうか、とこれまた長らく思っていて、何軒かの生地屋さんを巡って探しているのですが、ちょうどよいものが見つからず困っています。

(これから告知をしようとしている中、のっけから189字の悪文で失礼していますが、まだコーヒーの話を少し継続します。)

それで、今日は久しぶりにペーパードリップで淹れてみようと思いたち、メリタのドリッパーで淹れてみたのですが、やはり随分と印象が変わって面白いものです。自分で焙煎したフレンチローストのマンデリンなのですが、ネルと比較してコクや旨味が紙に吸い取られてしまい、また、メリタのドリッパーが浸漬式的な抽出原理も取り入れている構造のため苦味成分が多く抽出され、苦味が前面に押し出されているように感じます。ネルに慣れていると、ちょっと物足りなく思ってしまうのが正直なところです。

普通は逆だと思うのですが、今日に関してはコーヒーを飲んだあと、作り置いていたカレーを食べました。食前のコーヒー、となったわけですが、これにはこれなりのメリットが有るようです。ダイエットなどには良いようです。カレーはいつも通りのチキンカレーと、新メニューのかぼちゃのチャナダル・クートゥなのですが、今回作ってみてクートゥという料理は今後もっと作ってみたいと思いました。要は、豆を柔らかく煮たものとココナッツミルクをベースとし、それに野菜を加える(=クートゥ)カレーなのですが、玉ねぎは不使用のため炒める手間も必要なく、豆を水につけておいたりコトコトと煮込む時間は必要なのですが、あまり手間もかからず、同じレシピで色々な野菜を入れられるため、これからはその時々の旬の野菜を色々と試してみたいなぁと考えています。

それから昼過ぎより学習塾で勤務、小学生やら中学生やら高校生やらに授業をし、合間に数学をチビチビと楽しみつつ、帰宅して夕食をとり、なんだかんだ現在に至るのですが、そろそろ12時を回り7月3日が終わろうとしているところ、ちょうど20日後に控えた、バンドの一周年記念ライブの告知をしたいと思います。

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吉田和史×夜窓 結成一周年ライブ

7月23日(日)
open17:30/start18:00

【会場】
bar toilet
新宿区新宿1-16-9 2F
https://m.facebook.com/toilet-256647061198236/?locale2=ja_JP

【料金】
¥2,000+1ドリンクオーダー(※要予約

【ゲスト出演】
▼ Hapworth(Vo. & G.)
▼ 葛西和歌子(Vn.)

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昨年7月20日に初のライブ、同9月にはシングルを発売、今年5月にはフルアルバムを完成させ(現在は未発売)、と比較的ハイピッチで活動していて、あっという間といえばあっという間なのですが、この7月で一周年ということになります。

我々、夜窓のレパートリーを全曲演奏したり、ゲストによる夜窓のカバーも演奏される、ちょっと豪華なライブとなっております。今回は要予約となっていますので、ご連絡いただくか、Facebookページにてステータスを参加にしていただくことが必要となります。

どうぞお越し下さい。